覚え書：「今こそ榎本健一：エノケン、陰に苦難と努力」、『朝日新聞』2016年06月20日（月）付。

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今こそ榎本健一：エノケン、陰に苦難と努力
2016年6月20日　

榎本健一
　大衆が支持した「喜劇王」。情熱的でアナーキーな才能が時代の扉を開いた。

　卓越した身体能力にスピーディーな動き。ジャズとナンセンスギャグを融合させた新しい喜劇。「エノケン」の愛称で親しまれた役者、榎本健一。仮面の下にはどんな素顔が隠されていたのか。

　半生をたどると、栄光のスター街道との落差に驚く。片腕だった座付き作家の菊谷栄が戦死。エノケンも空襲に遭い、東京都内の自宅を失った。４５歳のとき「脱疽（だっそ）」という病気になり、５７歳のとき右足を切断した。跳んだり跳ねたりといった軽快な動きができなくなっても義足をつけてカムバック。義足は５本以上あり、役ごとに使い分けた。

　激しい動きのため付け根との間に痛みが走り、血がにじむ。我慢を重ねるうち目尻のしわが増え、しわ取りの手術までしたという。長男の病死や前妻との離婚もあった。「だからこそ、笑いが庶民の生きるエネルギーになると信じていたのではないか。舞台では全身全霊をこめてサービス精神を発揮した」。付き人だった元国立劇場理事の平島高文さん（８２）は語る。

　努力の人でもあった。動物園に行ってサルの動きを一日中観察し、しぐさを覚え込んだ。「相手の動きをよく観察し、うまく引き立てた。何でも突っ込んで早口でしゃべればいいという喜劇とは違い、間合いを大切にしていた」と平島さん。その喜劇はおしゃれで都会的で品があった。

　エノケンが脚光を浴びた昭和初期は世界恐慌による刹那（せつな）的な享楽ムードが漂い、「エロ・グロ・ナンセンス」の文化に人々が酔いしれた時代である。その中心となった浅草は、浅草寺西側の「六区」と呼ばれる地域が興行街として整備され、大正期には浅草オペラが隆盛を誇った。

　お笑い番組の構成なども手がけていた江戸川大の西条昇・准教授（喜劇史）は「浅草にはバタ臭い大衆文化が息づいていた。そこにモダニズムとエキゾチシズム、ある種のエロチシズムが結合した」と語る。「悪所（あくしょ）」と呼ばれ、左翼運動家や不良が集まっていた浅草。表現活動の現場ですら「自己規制」という言葉が飛びかういま、エノケンを生んだ浅草のアナーキーな活力から学ぶべきことは多い。

　先見性も注目したい。喜劇といえば「人情喜劇」が主流だった時代、西洋音楽を大胆にも替え歌にして、「アチャラカ（あちら化）」と呼ばれた破天荒なドタバタ喜劇を広めた。「ジャズのリズムに日本語の詞を初めて乗せた人」ともいわれる。いずれにしても、やがて「喜劇王」と呼ばれ、日本中を笑いの渦に巻き込む姿は実に痛快だ。

　エノケンが全エネルギーを注いだ喜劇の笑いは爽快感にあふれていた。弱者を標的にウケを狙った笑いではない。だからこそ、世のしがらみや体制に窮屈な思いをしてきた人々には、カタルシスをもたらすほど魅力的だったのだろう。「いまの芸能界に必要なのは、既成概念を突き破るパワーではないか」。作家やクリエーターとして多方面に活躍しているいとうせいこうさん（５５）は語る。伝統芸へのコンプレックスというものもエノケンにはなかった。

　〈人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇〉

　チャプリンの言葉が浮かぶ。少年のように好奇心旺盛で新しいことに挑戦したエノケン。「エノケソ」という偽者が出ても喜んでいた。あの世からよみがえったら、インターネットテレビの番組にも出演するだろう。ハチャメチャな動きが、デジタルの世界を席巻するかもしれない。（編集委員・小泉信一）

　＜足あと＞　えのもと・けんいち　１９０４（明治３７）年、かばん屋の長男として東京・青山に生まれる。浅草オペラのコーラスボーイなどを経て２９（昭和４）年、劇団「カジノ・フォーリー」の旗揚げに参加。３１年「ピエル・ブリヤント」結成。やがて一座を率いて浅草松竹座に出演する。３４年、映画「エノケンの青春酔虎伝」（山本嘉次郎監督）に初主演。戦後、日本喜劇人協会を設立し初代会長に就任。７０年、肝硬変により６５歳で死去。

　＜もっと学ぶ＞　『エノケンと菊谷栄　昭和精神史の匿（かく）れた水脈』（晶文社）は２０１３年に亡くなった文化人類学者・山口昌男さんの遺稿。浅草で花開いた大衆文化の構造を解き明かす。

　＜かく語りき＞　「喜劇をやると思うな。悲劇をやれ！」（亡くなる２カ月前、稽古場に車いすで駆けつけ、門下生の財津一郎さんに叫ぶように訴えた）

　◆次回は２７日、ＳＦ作家のスタニスワフ・レムの予定です。
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