覚え書:「核といのちを考える 被爆国から2016夏:1 原爆、祖父の怒り感じた 戸田菜穂さん」、『朝日新聞』2016年07月20日(水)付。

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核といのちを考える 被爆国から2016夏:1 原爆、祖父の怒り感じた 戸田菜穂さん
2016年7月20日

戸田菜穂さん=西田裕樹撮影

 広島、長崎への原爆投下から71年の夏。オバマ米大統領被爆地・広島に歴史的な一歩を刻みましたが、「核なき世界」への道のりは長く険しいのが現実です。それでも私たちはあきらめず、歩みを前へ進めたい。インタビューシリーズ「被爆国から」。核問題と向き合う各界の人に話を聴きます。

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 去年暮れに仕事で広島へ帰ったとき、父から「読んでみて」と体験記のコピーを渡されたんです。原爆の後、歯科医だったおじいちゃんが救護班として現場へ駆け付け、夜も寝ずに治療を続けた様子が書かれていた。初めて知りました。

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 戸田さんの亡き祖父・幸一さんは広島県可部(かべ)町(現・広島市安佐北区)の戸田歯科医院の院長だった。原爆投下直後、広島市近郊の寺でけが人の救護にあたった。その5年後、「平和を念じて」と題した体験記を広島市に寄せていた。

 《(患者は)一人、二人と、丸太棒を倒す様(よう)に倒れ始めた。其(そ)の肉に、ガラスの破片が食ひ込むのに、のたうち廻(まわ)り、其の内(うち)動かなくなる。(略)子供に迄(まで)このむごさはどうだ。地獄だ。(略)自分はこの時位(くらい)、医者と云(い)ふ天職に感激した事はない。よしやるぞ》

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 治療にあたったお寺は実家の近所にあって、小さいころよく遊んだ思い出の場所です。本当にびっくりしました。悲惨な状況の中で負傷者を前にして、自分がやらなければという使命感があったんでしょうね。

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 被爆から数日たって亡くなる人が続出した。1945年8月15日、幸一さんはラジオで終戦を知る。

 《止めどなく涙が流れて、急に力が抜けてペッタリと坐(すわ)って、しばらく動けなかった。(略)もう此(こ)の肉体は、苦痛に耐へる力がない。病む人も、看(み)る人も。でも此の患者の治療は一日も放置出来ないのだ》

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 原爆への祖父の怒りを感じました。私の知らないおじいちゃんに会えた気がして、深い感動も覚えながら。毅然(きぜん)として、こちらの背筋がピンと伸びるようなおじいちゃん。粋な着流し姿をよく覚えています。

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 45年8月末から幸一さんは下痢が続いたという。被爆による急性症状とみられる。それから45年後の90年、79歳で亡くなった。

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 亡くなったのは私が高2のとき。孫には戦争の話はまだ早いと思って、話さなかったのかもしれません。でも、そのむごさは書き残さないといけないって、きっと思ったんでしょうね。その遺志を受け継がないと。2人の娘が大きくなったら体験記を読ませたい。

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 広島市は1950年に体験記を募り、幸一さんら165人が寄稿。一部が小冊子になった。だが占領下の当時、プレスコード(報道規制)があって原爆の情報も制約され、長く倉庫に眠ったままだった。これを展示する企画展がいま、平和記念公園内の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で開かれている。幸一さんら3人の体験記は映像化もされている。

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 人の命やささやかな生活を奪う核兵器は廃絶しないといけません。1発でも世界が終わるほどなのに、世界中に1万6千発もあるなんて。地球が泣いています。もっと危機感を持たないと。

 「私には関係ない」って思わないでほしい。情報はある。広島で被爆者の方の話を聴いたり、原爆資料館を見学したり、自分から受け取りに行ってほしい。子どもも接する機会を大人がつくってあげてほしい。

 オバマ米大統領も広島にいらしたのはすごくよかった。その発信力で世界中に原爆のむごさを伝えてほしい。そう願っています。

 (岡本玄)

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 とだ・なほ 俳優 1974年、広島市出身。ホリプロスカウトキャラバンでグランプリ受賞、91年デビュー。NHK朝の連続ドラマ「ええにょぼ」のほか、「ショムニ」「沈まぬ太陽(第2部)」に出演。
    −−「核といのちを考える 被爆国から2016夏:1 原爆、祖父の怒り感じた 戸田菜穂さん」、『朝日新聞』2016年07月20日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12468152.html


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