日記:子規にとっての従軍体験

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 新聞『日本』には、俳句の様式を分類した批評文を連載すると同時に、年明けの一八九六(明治二九)年一月一三日から一九日まで、子規は七回にわたって、『従軍紀事』を連載し、従軍記者に対する軍の対応の仕方に対して批判を展開した。「台南生」という筆名で発表した『従軍紀事』は、「軍人は規律の厳肅称呼の整正を以て自ら任ず、而して新聞記者を呼で新聞屋々々々といふ。新聞記者亦唯々として其前に拝伏す。軍人は自らが主人の如く思ひ従軍記者は自ら厄介者の如く感ず」と、自らの従軍体験に基づいた、従軍記者に対する軍の不当な扱いに対する生々しい記録となっている。
 たとえば従軍記者団が乗り込んだ海城丸の船中で「一人の曹長」から「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱る」ような調子で、船室内の居場所を縮めろと命令され、「詰める事が出来んやうならこゝを出て行け」と言われたことに対する従軍記者団の反応は、次のように記されている。

 余等は親にも主にもかく烈しく叱られたことなければ余りのばか/\しさと恐ろしさに却つて身動きもせず息を殺してひそみ居りぬ。

 船に乗っているのだから出て行く先はないのであり、曹長の言うことは理不尽なのだが、「主人」と「厄介者」という権力的関係性においては、どんな理不尽なことでも受け入れざるをえなくなる。「ばか/\しさと恐ろしさ」という二つの感情に二重に抑圧された瞬間、人間が人間として生きることを停止させられてしまうことが、「息を殺してひそみ居りぬ」という表現によって明らかにされている。
 従軍記者団は金州に上陸してからも、待遇をめぐって軍との軋轢を繰り返す。子規は同行の「神官僧侶」たちに比べ、自分達の「取扱」が「不公平」だと「管理部長」に直接訴えた。しかし、「管理部長」は「あの人等は教正とか何とか言つて先ず奏任官のやうなものだ君等は無位無官ぢや無いか無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方が無い」と言われてしまう。軍の側が従軍記者をどのように見ていたのかが、露骨に突きつけられたのだった。「此時吾は帰国せんと決心せり」と子規は書きつけている。
 新聞というメディアが、戦争を遂行している国にとって、きわめて重要な役割を担っていても、その記事を書く新聞記者の社会的な評価はきわめて低いという現実を、「新聞屋」としての子規は目の当たりにし、心身で感じとったのであった。
小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』集英社新書、2016年、71−73頁。

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