日記:いちばん問題なのは、客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業をこなせば透明度がまして、世界の様子がわかってくるはずだ、という単純な思いこみ

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 いちばん問題なのは、客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業をこなせば透明度がまして、世界の様子がわかってくるはずだ、という単純な思いこみである。この思いこみは、客観的な世界の様子を記述する知識命題が存在し、それらを上手にあつめて記憶し編集すれば世界をより深く正確に知ることができるようになり、さらには世界を操作できるようになる、という常識的な考え方につながっている。
 だが、実際には、知識命題とは、それを学校で習おうとネットから検索してこようと、所詮は誰かがおこなった一種の解釈にすぎないのではないか。とすれば、所与の知識命題がネットの海のようにあふれることで、かえって判断が混乱し、思考力が衰える恐れもあるだろう。もっと大切なのは、手際よく所与の知識命題をあつめてくることではなく、自分が生きる上でほんとうに大切な知を主体的に選択して築き上げていくことのはずである。
 この点で、近年の若い学生たちの様子について、一言ふれておくことにしよう。IT文明のなかで育った彼らは、いつもモバイル情報機器を身につけている。上手にネットを利用し、あちこちから知識命題を探してくるのは得意だ。いわゆるコピペレポート(コピー&ペーストの処理で、ネットのなかの断片的文章を繋ぎ合わせて作成するレポート)なら、たちまち要領よくでっち上げてしまうだろう。
 それはこちらもわかっているので、先手を打って、検索エンジンの役に立たない問題を出すことにする。「情報伝達とコミュニケーションとはどう違うか」などといった、正解が一つとはかぎらない、自分の頭で考えなくてはいけない問題である。すると、「わかりません」とすぐギブアップする者もいるが、結構いろいろ考えて、自分なりの面白い答を書いてくる者も少なくない。このあたりは、やはり若さの輝きだ。
 だが問題は、興味深い答を書いているにもかかわらず、「これはあくまで自分の個人的意見にすぎません」などと注記している答案が多いことである。中には、「こんなことを考えたって、何になるのかわからない」と率直な感情をぶつけてくる答案もある。
 たぶん、彼らにとって授業とは、既存の権威ある知識体系を単にわかりやすく伝授してくれるものなのだろう。彼らはそういう教育ばかりうけてきたのである。ほんとうの学問とは、既存の知識体系を丸呑みにすることではなく、批判的に解釈することから始まるのだが、そういう作用は非効率な時間つぶしのように思っているのではないか。
 受験勉強の弊害だといえばそれまでである。だがそれだけではない。知識社会というお題目のもとに、所与の知識命題の効率のよい処理だけが知的活動であるという幻想を植えつけた大人たちにも責任はあるのだ。
 肝心なことは、ここでいう知識命題とは、自分の行為や生活から練り上げた体験知ではなく、天下りにあたえられ、自分が手をふれて変更することなど不可能な「所与の知」だという点である。両者のあいだには本質的なちがいがある。この相違を理解するには、母語と外国語の学習の相違を考えればわかりやすい。
    −−西垣通集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年、48−50頁。

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