日記:詩と科学


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詩と科学 こどもたちのために

 詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。どうして遠いと思うのか。科学はきびしい先生のようだ。いいかげんな返事はできない。こみいった実験をたんねんにやらねばならぬ。むつかしい数学も勉強しなければならぬ。詩はやさしいお母さんだ。どんな勝手なことをいっても、たいていは聞いて下さる。詩の世界にはどんな美しい花でもある。どんなにおいしい果物でもある。
 しかし何だか近いようにも思われる。どうしてだろうか。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。薔薇の花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持と、花の形状をしらべようとする気持の間には、大きな隔たりはない。しかし薔薇の詩をつくるのと顕微鏡を持ち出すのとではもう方向がちがっている。科学はどんどん進歩して、たくさんの専門にわかれてしまった。いろんな器械がごちゃごちゃに並んでいる実験室、わけの分らぬ数式がどこまでもつづく書物。もうそこには詩の影も形も見えない。科学者とはつまり詩を忘れた人である。詩を失った人である。
 そんなら一度うしなった詩はもはや科学の世界にはもどって来ないのだろうか。詩というものは気まぐれなものである。ここにあるだろうと思って一しょうけんめいにさがしても詩が見つかるとは限らないのである。ごみごみした実験室の片隅で、科学者は時々思いがけなく詩を発見するのである。しろうと目にはちっとも面白くない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。しかしすべての科学者がかくされた自然の詩に気がつくとは限らない。科学の奥底にふたたび自然の美を見出すことは、むしろ少数のすぐれた学者にだけ許された特権であるかも知れない。ただし一人の人によって見つけられた詩は、いくらでも多くの人に分けることができるのである。
 いずれにしても、詩と科学とは同じ所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、途中の道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすればだんだん近よって来るのではなかろうか。そればかりではない。二つの道は時々思いがけなく交叉することさえあるのである。
    −−湯川秀樹『詩と科学』平凡社、2017年、11−13頁。

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