覚え書:「みちのものがたり 秩父困民党の進軍路 長野県 俳優・菅原文太と秩父事件」、『朝日新聞』2017年07月01日(土)付土曜版Be。
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みちのものがたり 秩父困民党の進軍路 長野県 俳優・菅原文太と秩父事件
2017年7月1日
高原には初夏の爽やかな風が吹いていた。古い家並みが残る長野県小海町(こうみまち)の東馬流(ひがしまながし)集落のはずれ。小さな神社のそばに、その墓碑はあった。
「秩父暴徒戦死者之墓」
1884(明治17)年11月1日、明治政府のデフレ政策に苦しむ埼玉県秩父地方の秩父困民党の農民3千人が結集して武装蜂起した「秩父事件」。大宮郷(現・秩父市)を占拠、軍隊と警察によって鎮圧されたが、陣容新たに数百人が峠を越えて、信州へと転戦。その最後の戦いがくり広げられたのがここ東馬流なのだ。さらに一部は八ケ岳山麓(さんろく)の野辺山原(のべやまはら)へと逃げ、そこで散り散りになった。
墓は1933(昭和8)年、事件50周年を前に、遺族によって建立された。「暴徒」とされ、事件を語ることもできなかった時代、いち早く建てられた追悼碑だ。
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2011年12月、ゴム長靴で首には白いタオルといういでたちの菅原文太さん(1933〜2014)が、この墓を訪れた。翌年1月にNHK・Eテレで放送されたシリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第2回「自由民権 東北で始まる」のロケ現場の下見のためだった。
宮城県出身の菅原さんが東北の自由民権のゆかりの地を訪ねるこの番組を企画したNHKエグゼクティブ・プロデューサーの塩田純さん(57)によると、菅原さんからは出演にあたって注文がついた。「自由民権を今の問題として考えたい」「東日本大震災の被災地に行きたい」、そして「ぜひ秩父事件もとりあげたい」。困民党最後の戦場東馬流を訪問したいと望んだ。
菅原さんと秩父事件に接点ができたのは、1980年放映のNHK大河ドラマ「獅子の時代」にさかのぼる。
映画「仁義なき戦い」や「トラック野郎」シリーズに主演する東映の看板スターが、ドラマに進出したことでも話題になったが、その内容もまた画期的だった。
山田太一さんのオリジナル脚本で、主人公は会津藩と薩摩藩の架空の下級武士二人。偉人ではなく、民衆の側から幕末・明治の激動の時代の光と影を浮き彫りにした。
ドラマの終盤で菅原さんが演じた会津藩士、平沼銑次(せんじ)は秩父事件に身を投じる。軍や警察の攻勢を受け困民党の本陣が崩壊しても銑次は諦めず、上州、信州への転戦を農民たちに呼びかける。「秩父の外へ出る。秩父の外には、まだいくらでも百姓はおる。いくらでも味方はおる」
「自由自治元年」の旗を掲げた銑次が一人で鎮台兵に斬り込んでいく強烈なラストシーンから31年後。東馬流を訪れた菅原さんは困民党戦死者の墓石をそっとなでた。その場面に、本人の声でナレーションがかぶせられた。
「歴史の中で長く『暴徒』とされた困民党の人々こそ、自由民権の志を最後まで貫いた志士たちではなかったか」
■最後の講演のテーマも…
「獅子の時代」が秩父事件でクライマックスを迎えたのは、時代の空気の反映でもあった。放送翌年の1981年は「自由民権百年」。草の根から近代史を掘り起こす動きが全国に広がっていた。
同年11月、横浜市で開かれた「自由民権百年全国集会」にはのべ7千人が参加。歴史家の色川大吉さんの呼びかけで、山田太一さん、「獅子の―」に主演した二人、菅原さんと薩摩藩士を演じた加藤剛さんも顔をそろえた。
菅原さんは「自分はあくまでも一俳優」とことわりながらも、日本が「どこからか戦争の足音が聞こえないでもない」状況だとして、「銑次が現代に生き続けて民衆のために戦っているとすれば演じがいがある」と発言。「チェ・ゲバラがわれわれのヒーローの1人」「銑次はゲバラじゃないかと考えながら演じていた」とも語っている。
2003年、山田太一さん原作のドラマへの出演が、菅原さんを再び秩父事件へ近づける。「高原へいらっしゃい」(TBS)は現代劇だったが、ロケ地が、秩父困民党がついえた長野県野辺山原だったのだ。
妻の文子さん(75)によると、農業に取り組んでいた菅原さんは地元の農家の人々と交流を深めた。困民党に参加した気骨ある農民たちの気風が今も続くような土地柄が気に入り、別荘も建てた。
「いつか困民党が歩いた道をたどってここから秩父に行ってみたい」。そう話していたという菅原さんは車で東馬流を通るとき、いつも感慨深そうな様子だった。
権力に抗(あらが)い、志半ばで倒れた者たちへの熱い共感。俳優・菅原文太の原点はどこにあったのか。
仙台市で生まれ、戦争中は一迫町(現・栗原市)で過ごした。父・狭間二郎は戦前に一時期、プロレタリア詩人として活躍、戦後は画家となった。「生活力がなかった」と父親を、菅原さんは複雑な思いで見ていたようだが、底辺労働者たちの苛酷(かこく)な境遇を憤る父の詩には、菅原さんの反骨精神へと通じるものがある。文子さんが語る。「芯の強い東北人だったという点で似ていた。夫は父からもらった古典文学書をボロボロになるまで読んでいました」
仙台一高の1年後輩で、終生の友だった憲法学者の樋口陽一さん(82)は、桁外れに自由だった母校で培われたものも大きかったとみる。
「権勢や流行にあらがって自分の信じるところをゆく。文ちゃんは、借り物ではない自分の言葉をもっていた」
大学に進み、上京するが授業料が払えず除籍。山谷の簡易宿泊所で暮らしたことも。約250本の出演映画で演じたほとんどが社会の底辺や裏で生きる人たちだった。「社長や優しいおじいさん役は嫌だ、年とってやる役がないと言ってました」と文子さん。
晩年、戦争を知る世代として、身を削るように反戦、護憲、反原発、沖縄の基地問題について訴え続け、各地を飛び回る姿は、銑次そのものだった。2014年11月1日には、沖縄県知事選で、辺野古の基地建設に反対する候補の集会に駆けつけた。対立陣営に向けて「弾はまだ残っとるがよ」と、「仁義なき―」の決めゼリフを放ち、地響きのような歓声がわいた。
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その8日後。困民党が終わりを迎えた11月9日、菅原さんの姿は秩父市にあった。「秩父事件130周年」の記念講演のためだった。
腰痛でつらそうだったが、メモもなしに、90分間をひとりで話し続けた。
「今、日本はおかしくなっていますね」と、低いしゃがれ声でゆっくり切り出したという。そのうえで、「なぜ怒りの声があがらないのか」と嘆く。「秩父事件をみると、かつての日本では、一人一人の力は弱くても、権力の理不尽なことには団結して抵抗する底力があった」
なぜ長年、秩父事件と困民党に「愛着」をもち続けてきたのかについても明かした。
「『天朝様に逆らうから助っ人しろ!』と悲痛な覚悟で官憲に突っ込んでいった若者がいたと聞いて感銘深くてね。天皇制が絶対の時代に、そんな日本人もいたんだと」
菅原さんが亡くなったのは11月28日。秩父での講演から19日後のことだった。
(文・林るみ 写真・堀英治)
■今回の道
秩父困民党の幹部には、菊池貫平、井出為吉ら長野県佐久地方出身者もいた。彼らは、十石(じっこく)峠を通り、いくつもの峠を越え、群馬県南西部の山中谷(さんちゅうやつ)を経て秩父に入ったとみられる。
この峠越えの道は現在の国道299号に重なる部分が多い。武州街道とも呼ばれ、重要な交易ルートだった。十石峠の名はここを通って、信州佐久米が日に10石、上州山間部へ送られたことに由来するとされる。
1884年11月1日の困民党蜂起から3日後に秩父皆野の本陣が崩壊すると、菊池率いる部隊約200人はこの峠道を通り、信州へ転戦。11月9日、東馬流に入ったが、天狗(てんぐ)岩=写真=付近で軍・警察との銃撃戦に敗れ、一部はさらに八ケ岳ふもとの野辺山原へと逃げ、そこで四散した。
菅原文太さん=顔写真=主演の大河ドラマ「獅子の時代」にも、秩父事件のシーンでは峠道が登場する。
■ぶらり
JR小海線馬流駅から徒歩2分、秩父困民党が最後の戦いの拠点にした「井出本陣」跡が当時と変わらぬ門構えでたたずむ。当時の当主・井出直太郎はここで酒屋を営み、困民党約400人を宿営させた。家の柱には戦闘の刀傷が残る。
近くの諏訪神社そばには、菅原文太さんも訪れた「秩父暴徒戦死者之墓」がある。東馬流での困民党戦死者を悼むため、1933年、菊池貫平の遺族によって建てられた。揮毫(きごう)したのは井出直太郎。
馬流駅から5分、戦場となった天狗岩には事件100周年に建てられた「秩父困民党散華之地」の碑、菊池貫平と井出為吉の像が立つ。困民党の幹部だった菊池、井出の暮らした家、墓は長野県北相木村に残っている。同村はJR小海線小海駅からバスで20分。
同線野辺山駅から送迎バスで15分、八ケ岳の山麓(さんろく)、野辺山原のリゾート施設八ケ岳高原ロッジ(電話0267・98・2131)は菅原文太さんもよく訪れた。散策が楽しめる敷地内に立つ八ケ岳高原ヒュッテは、元侯爵徳川義親邸を移築した洋館で、菅原さんが出演した「高原へいらっしゃい」の舞台になった。同じ敷地内の音楽堂はリヒテルと武満徹をアドバイザーに造られ、週末などにコンサートが開かれる。
■読む
井上幸治著『秩父事件』(中公新書)は、秩父事件研究の古典的名著といわれる。1968年刊行で、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけた。
菅原文太さんの東馬流への旅の記録はNHK取材班編著『日本人は何を考えてきたのか 明治編』(NHK出版)に。秩父事件研究顕彰協議会編『ガイドブック 秩父事件』(新日本出版社)は、フィールドワークに便利。峠道に関しては井出孫六著『峠の廃道』(平凡社、品切れ)がある。
■読者へのおみやげ
ルリビタキが描かれた八ケ岳高原ロッジ特製のキーホルダーを13人に。住所・氏名・年齢・「1日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。6日の消印まで有効です。
◆次回は、清流で知られる高知県の仁淀川の土手道。戦後、満州から引き揚げた宮尾登美子さんにとって、作家への出発点の地でした。
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