覚え書:「メディアの戦後史 特高拷問描いた石川達三 「言論の自由」貫いた生涯」、『毎日新聞』2017年09月07日(木)付。

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メディアの戦後史

特高拷問描いた石川達三 「言論の自由」貫いた生涯

毎日新聞2017年9月7日 東京朝刊

1949年11月8日朝刊(東京本社最終版)に連載された小説「風にそよぐ葦」205回の横浜事件の過酷な取り調べを描いた場面

 「平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きて居なかった。」

 第1回芥川賞受賞者の石川達三(1905〜85年)が38年、日中戦争に従軍して書いた小説「生きている兵隊」で、日本兵が無防備な中国人女性を殺害する場面だ。月刊誌「中央公論」の同年3月号に発表されたが、約4分の1が伏せ字削除された。

 「平尾は・・・あたりを・・・。他の兵も各々・・・まくった。ほとんど十秒と・・・。」

 さらに即日発禁処分になり、書店にあった雑誌は警察に押収された。石川は中央公論の編集者とともに戦前の言論統制法の一つ「新聞紙法違反」に問われ、禁錮4月、執行猶予3年の判決を受けた。「皇軍(日本軍)兵士の非戦闘員殺りくを記述したる安寧秩序を紊乱(ぶんらん)する事項」を執筆したためとされた。

 石川は必ずしも反戦だったわけではなく、有罪判決を受けた後も再び従軍作家として活動した。だが筆禍は続く。石川が敗戦直前の45年7月、毎日新聞に連載した小説「成瀬南平の行状」は事前検閲によって15回で打ち切りになった。「言論表現の自由ということをしきりに考えた。殊に筆禍によって体刑を受けるに至って、言論自由への要求は骨身に滲(し)みこむようなものとなった」(「経験的小説論」)。戦時の心境について後にこう振り返っている。

 戦後。「生きている兵隊」は45年末、伏せ字を外して出版された。石川の長女、竹内希衣子さん(80)はその頃の父の姿を覚えている。「してやったりと喜んでいましたよ」。しかし自由が得られたわけではなかった。46年の短編小説「戦いの権化」は連合国軍総司令部(GHQ)の民間検閲局(CCD)の事前検閲によって公表が禁止された。

 GHQの検閲体制が事実上解かれる49年、石川は毎日新聞で小説「風にそよぐ葦(あし)」の連載を始めた。日米開戦前の40年以降を舞台に「個人というものがぼろくずのように扱われた」時代の風に倒される人々の姿を描き、足元から自分たちを見つめ直す試みだった。

 「戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐(ふくしゅう)であった」という小説の主人公のモデルは「生きている兵隊」の版元の中央公論社社長、嶋中雄作。戦時最大の言論弾圧とされ、拷問で4人が獄死した「横浜事件」のいきさつや拷問の模様を描いた。「言論の自由はわずかに神奈川県警の一特高警察の力によって見事に蹂躙(じゅうりん)された」。逮捕されたジャーナリストの細川嘉六も実名で登場させた。

 中断を挟んで2年間続いた連載小説は、日本国憲法の施行日の場面で幕を閉じる。主人公に「国家とか社会とか、そういうものには、望みが持てなくなった。人間の誠実な心だけは、信じられる」と言わせながら、国民主権を理念として、検閲を禁じ、言論の自由を保障した新しい憲法に希望を託した。「日本人はいまだ嘗(かつ)て、個人の権利と自由、個人の尊厳について、あれほど明白に厳格に規定された憲法を持ったことはなかった」(「経験的小説論」)

 石川は「日本ペンクラブ」会長となり、生涯を通じて言論の自由に向き合った。「風にそよぐ葦」は戦後70年を迎えた2015年、岩波書店が「現代文庫」に加えた。担当編集者の上田麻里さん(48)は「石川は言論の自由がなかった時代に、書かなければならないことを書き続けた『ぶれない』人だった。戦争を知らない世代が大半となった今、言論は少しずつ萎縮している。この小説はその自由を守ることがいかに困難で大切かを訴えている」と話す。【川名壮志】=次回は10月5日掲載予定
    −−「メディアの戦後史 特高拷問描いた石川達三 「言論の自由」貫いた生涯」、『毎日新聞』2017年09月07日(木)付。

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