「吉野君がわれわれの間に投じた光明の理想に照らされて、われわれも亦、その途を実に遠く踏みつづけることにいたしたい」

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 吉野作造君が永眠されました。ここに、履歴を追憶するの役目をいひつかつたのではありまするが、しかし、学者としての吉野君、評論家としての吉野君については、世上の知るところがあまりに鮮やかなのであります。また、社会運動の指導者としての吉野君についても、いま新たに語を費やさねばんらぬものはないのであります。ここに、吉野君の恩師、先輩、同僚、友人、後進乃至教へ子たちと、かやうにお集まりをねがふうことのできました方方は、いづれも、皆、吉野君をよく知り、よく理解し、心からその人格に対して敬愛の念を持ち、その永眠に向つて無限の痛惜を抱くにつき、すべて志を一にせられるのであります。
 吉野君は、大学を卒業せられてから、永く支那に滞留せられました。支那に対するその深き理解と同情とに因つてわが国策を論ぜられたのでありました。この後、職を東京帝国大学に奉ぜられヨーロッパに留学せられること数年、その蘊蓄は、世界大戦を中心とする国際政局の帰趨を論ずるに独特の見地あらしめたゆゑんのものでありました。爾来二十有幾年、その諤諤の論議は、わが国の思潮についてその発展を考へる者、何人もこれを除外しては事を論じずるを得ないわけであります。殊に、維新以降明治を通じての文化につき格別の研究をかさね、政治史家としてわが近代史に対し持つてゐられた見識に至つては、全く他の追随を許さないものがあつたといはねばなりますまい。
 吉野君は、まことに、終始一貫、憂国の志士であられました。しかし、その信仰深き性格は事を嘆いてしかもみづから傷るが如きことなく、策を論ずるやつねに巧妙を求めねば止まなかつた。吉野君の所論に対しては、世上に幾分の誤解なきを得ないものがありましたが、吉野君には、いかなる場合においても、これに向つて、肩をそびやかし眉を揚げるといふやうなことはなかつた。慈顔よく人の言ふところを聴き、温容事を論じて中正の矩を踰ゆるなき、常にさうでありました。その著のなかに、會てみづから懐を述べていはれたことがあります。「自分は、平素、現在あるがままの自分の生活を充実したいと心掛けて居る」と。この謙虚にして自信のある生活を知ることができませう。また曰く、「結局において、自分は、人類社会の前途に常に光明を望み、また、常に歓喜の情に溢るるものである」と。その情熱と信仰とを想見することを得ませう。みづから奉ずることのしかく甚だ薄く、人のために計つてしかく盡さざるところなく、力を社会事業に注ぎ、援助を芸術に惜しまなかつた吉野君は、また、次のやうな告白をしてゐられます。「自分は、この世において為すべき当面の務を怠らず果たさんとしつつある。而して、多少の哲学的強要を受けることを得たことは、洽く対局の形成を展望し得るの地位においてくれた。ただ、それだけでは、茫として人生の正しき進路を識別することができなかつたであらうのに、宗教的信念は天の一方に理想の光を憧憬して、自分を正しき方向に向はざるを得ざらしめた。正しいのか、正しくないのか。人のこれを争ふ者あらばこれを争ふに任せる。兎に角、自分は、固より、この器量甚だ小なる者ではあるが、小さいながらに恵まれた生活を営みつつあることを、密かに悦ぶものである」と。かくの如き吉野君にして、しかしか恵まれざるものがあつたといはねばなりませぬのは、その畢生の事業であつた明治文化史論が、不幸にも、完成を見るに至らなかつたことであります。しかし、吉野君が起訴を据ゑつけられた明治文化の研究は、吉野君に依つて養成され、奨励され、抉掖された人たちの手に依つてその大成を見るに至ることでありませう。
 「さらば、吉野君よ、安らかに眠りたまへ。吉野君がわれわれの間に投じた光明の理想に照らされて、われわれも亦、その途を実に遠く踏みつづけることにいたしたい」−−
    牧野英一
    −−牧野英一「序」、川原次吉郎編『古川餘影』川原次吉郎、昭和八年、1−8頁。

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1933年の今日3月18日は、吉野作造博士(1878−1933のご命日。

自分自身が研究し私淑している先達の話題で恐縮ですが、ご紹介しておきます。

何度も繰り返し言及している通りなのですが、民本主義大正デモクラシーをリードしたことで有名ですが、吉野博士は「民本主義」の「ため」に議論したわけではありません。

一人一人の民衆が幸福になるためには何が必要なのか……それが吉野の最終目的です。

ですから「民本主義」というシステムもそれを実現するためのひとつの素案に過ぎませんし、社会や国家の挑戦のなかで、その概念もさまざまに展開していきます。

そして最終的には「強制のない状態」が「理想」ではないか……と「無政府主義者」まで自認しております。これは吉野博士の信仰観と綿密に連動しているのですが、要するに、神と人との間には一切の介在物はないということからです。

さて先に、「吉野博士は『民本主義』の『ため』に議論したわけではありません」と言及しましたが、これはその思想的格闘だけに限定される話題ではありません。

吉野博士は、まさにデモクラットとして絶えず位置づけられる訳ですから、当時の右から左まで、勢揃いで敵対されてしまいます。右から順に見ていけば、天皇親政論者から国士様まで、社会派から無産主義者まで、絶えず論争をふっかけられております。

勿論、吉野博士は、そのひとつひとつと丁寧に向かいあっていくのですが、それだけでなく、そしてこれは見落としがちな点なのですが、議論する敵対者に対する対応において、それが敵であればあるほど、その思想だけでなく、その人間そのものまで「否定」するというパターンがよく見かけれますが、決してそうした振る舞いはしなかったということ。

確かに考え方として「おかしい」ということはあると思いますし、それをながい時間をかけたすり合わせによって検討していくことは必要ですが、「おかしい」人間は「人間としても最低野郎だ」などとは考えず、人間関係に関しては、相手が一回きりの方であろうが、古い友人であろうが、丁寧に向き合っていったということです。

ここは心にとどめおきたいところです。

冒頭に紹介した一文は盟友・牧野英一(1878−1970)が吉野博士の葬儀のさい、履歴の紹介と弔辞をつとめましたがその文章です。



「吉野君がわれわれの間に投じた光明の理想に照らされて、われわれも亦、その途を実に遠く踏みつづけることにいたしたい」。



昨今、圧倒的な勢いで暗雲が拡大しているような状況ですが、吉野作造を研究する人間としては、私自身もこの牧野英一がいう通り「その途を実に遠く踏みつづけることにいたしたい」。






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覚え書:「再生への提言:東日本大震災 福島の「草の根」に希望=「東北学」を提唱する福島県立博物館長・赤坂憲雄氏」、『毎日新聞』2012年3月17日(土)付。


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再生への提言:東日本大震災 福島の「草の根」に希望=「東北学」を提唱する福島県立博物館長・赤坂憲雄

 ◇赤坂憲雄(あかさか・のりお)氏
 復興の動きはあきれるほど遅い。国や県には将来へのビジョンが乏しいからだ。被災地はそんな国や県を見切り始めている。もはや受け身では何も動かないと、人々は痛みとともに気づいてしまった。

 被災市町村の首長たちは、それぞれに厳しい状況のなかで孤立を恐れず覚悟を決めて発言している。多くの人々が試行錯誤を繰り返しつつ、草の根のレベルから声を上げている。そうした「下」からの動きこそ支援してほしい。

 福島はかつて自由民権運動の土地だった。その記憶は今も生きている。シンポジウムの場などで、誰からともなく「自由民権運動みたい」という声が聞こえてくる。現実が厳しいからこそ人々は現代の自由民権運動を求めている。

 他方、中央の東北への視線は相変わらずだ。原発事故の当事者である東京電力の姿が福島ではほとんど見えない。十分に責任を果たしてきたとも思えない。それなのに東電批判の声はとても小さい。

 10万人の「原発難民」を生んだ福島に、原発との共存はありえない。福島県には、30年間で約3000億円の交付金が下りたと聞く。小さな村の除染費用にすら足りない。「契約」は破綻した。原発地震であれ津波であれ、絶対に事故を起こしてはならなかったのだ。福島からの脱原発イデオロギーではない。

 放射能による汚染は、福島県を越えて東日本全域に少なからず広がっている。汚染とともに生きる選択肢しか残されていない。可能な限り子供たちの健康を守るシステムを構築しながら、しなやかに、したたかに「腐海」(「風の谷のナウシカ」)と共に生きる知恵を学ばねばならない。

 どんなに困難でも、自然エネルギーへの転換しかない。風力・太陽光・地熱・バイオマスなどを組み合わせ東北全域を自然エネルギーの特区にするような、大胆で将来を見据えた提案がほしい。日本にはその技術も経済力もあり、再生へのチャンスもある。【聞き手・鈴木英生】

人物略歴 復興構想会議委員を務めた。58歳。
    −−「再生への提言:東日本大震災 福島の「草の根」に希望=「東北学」を提唱する福島県立博物館長・赤坂憲雄氏」、『毎日新聞』2012年3月17日(土)付。

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http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120317ddm003040166000c.html



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