「完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ」!

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 最後は権力である。権力は自由社会と共存できるものなのだろうか。人間解放の非常に古典的な考え方によると、解放と権力は対立概念である。その考え方では、矛盾のない自由社会というものは権力関係が廃止された社会ということになるのだろう。そういう状況では、権力の必要そのものがなくなっているのだ。マルクス主義が国家の消滅ということを考えたのは、こういう観点においてであった。しかしそういう透明な社会が本当に自由な社会であるかどうかは問題である。それを疑う重大な理由がある。自由には自己決定が含まれており、自己決定は自己決定者の意志が他の何ものによっても強制されないということが含まれている。自己決定としての自由は神にしかなく、われわれが唯一望みうる自由は、われわれ自身を超えた必然性の意識にすぎないことをスピノザはよく知っていた。つまりわれわれに開かれている行動の進路がアルゴリズムで決定されていない場合にしか、われわれは現実に選択する者ではありえないのだ。完全な合理性と選択可能性とは矛盾するのである。
 このことから、自由を制限する−−権力のような−−ものが、自由を可能にするものでもあるというパラドックスが生まれる。つまり先の二つの場合と同様に、あるものの可能性の条件が同時にそのものの不可能性の条件でもあるわけだ。決定不可能な領域で決定がくだされる場合、自由の条件である力が働いている。その力の前提は−−あらゆる力の場合と同様−−実現されていない可能性を抑圧するということである。この抑圧が同時に力の発動であり自由の行使でもある。つまり−−権力が除かれた−−完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ。権力は自由の影であり、アラブの格言にあるように、人は自分の影の外に踏み出すことはできない。ある種の社会的可能性を解放することはたしかにできるが、それは他の可能性を抑圧することによってでしかない。権力と自由の関係は絶えず交渉がなされ、相互間の境界が絶えず変更されるような関係であって、権力と自由という二つの条件はつねに残っている。最も民主的な社会でも権力関係のあらわれなのであって、権力が全くない社会とか権力がしだいに消滅していく社会というものではない。
    −−エルネスト・ラクラウ(青木隆嘉訳)「脱構築プラグマティズムヘゲモニー」、シャンタル・ムフ編『脱構築プラグマティズム法政大学出版局、2002年。

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調子が悪けれども、市井の仕事にでないことにはタツキもたちませんから、無理して出勤して業務を遂行してきたけれども、休憩時間になってから、ちょと読みかけの本を読もうかとすると、、、

「お客様が責任者を出せ」

だとか

「この商品の在庫はありますでしょうか」

だとか、

まあ、要するに「だとか、」の繰り返しにて、結局、一服することができなかったorzな1日でごわす。

ただ、ぴーんと頭に響いていたところだけは、iPhoneで入力だけはしていたのですが、マア、実は「ここダナ」@新渡戸稲造(1862−1933、新渡戸さんは、ここがホシだなと翠点を指摘するとき、必ず“ここダナ”と表現しております、キリッ)というわけです。

「完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ」!

上席者は、兵士よりも「自由」であるけれども、実は何かあると「自由」ではない。

「あったり前田のクラッカー」……という次第です。
ネタが古くてサーセン

仕事をしているなかでそのことを実感するわけですけれども、社会をデザインする文脈ではその権力−非権力、権力−脱権力、抑圧−非抑圧の構造をすっぽりと忘れてしまっている……そんなことを暫し、実感した次第です。

特に党派性イデオロギーはあらゆる形態を取ろうとも「権力が全くない社会とか権力がしだいに消滅していく社会」やシステムというものは存在しないんだ!ってことを前提条件として認識しない限り、おいらが運営している枠組みはマア、ましなんだゼ……っていっても、全然マシじゃないことを理解する必要があるんだろうねぇ。

⇒ 画像付版 「完全に自由な社会と、完全に不自由な社会は、実は同等の概念なのだ」!: Essais d'herméneutique

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