「見つつ畏れよ」

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 人を恐怖させるのではなく、畏怖させるようなものを、どこに探し求めたらよいのか。この問いは簡単に片付くとは考えられない。それが人間の内心の事柄にかかわっているからで、今日では内面世界の事柄は多くの人々にとってすでに飽きのきた、改めてかかわりあうのも煩わしい問題になってしまっている。畏怖すべきものに対応するのは「見る」ではなく「観る」視力だけであり、この視力は人間に時として過酷な強制や制約を要求する。「畏れる」と「観る」は連続しつつ重なり合ってゆかなければならない。それは苦痛であり、ありていえば、そこに現代人の恐怖があろう。しかしそうであるならば「見つつ畏れる」ことは「見つつ更に観る」とほとんど同義になってしまう。いやそれならば「見つつ畏れる」とは、結局のところただの一語「観る」ことに帰着するにちがいない。現代人が失ってしまったものを精神態度の問題としていえばただそれだけであり、古代ギリシア人の言葉でいえば「テオリア」が失われてしまったのである。
 しかし私は、「観る」能力の頽落に関して、それを過度にモラルに結びつけたり、いたずらに嘆息したりする姿勢には、さして意義を認めない。元来、ものを「見る」ことは、人間が視線となって己の外に飛び出してゆき、外部で「もの」と出会いをとげることであって、それ自体はじめから冒険を含み、人間をいわば拡散させるような性格を秘めていると思うからだ。むしろ視覚が人間を拡散させるからこそ、人間は視覚によって己を拡充し、すべての精神活動に踏みこむことができたというべきなのだ。それを人間の矛盾と感ずるところに視覚そのものの純粋化や強化がはじまり、「もの」は「神」になりもしたのである。
    高橋英夫「見つつ畏れよ」、『神を見る 神話論集1』ちくま学芸文庫、2002年、109−110頁。

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この数日の光景を見続けることにする。

絶対に忘れない。







⇒ ココログ版 見つつ畏れよ: Essais d'herméneutique



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