「わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)」ことの自覚と脱獄へ

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 この世のさまざまな事柄についての幻想は、存在に関するものではなく、価値に関するものである。洞窟のたとえも、価値に関係がある。わたしたちが所有しているのは、ただ善の模造品の影ばかりである。だから、善との関連でいえば、わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)。わたしたちは、そこへあらわれてくる、まがものの価値を受け入れる。そして、自分では行動していると思っていても、事実はじっと動かずにいる。というのは、結局同じ価値体系の中にとどまっているのだから。
    −−シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵ちくま学芸文庫、1995年、90−91頁。

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月曜日は、出張あけできつかったのですが、短大で2回目の哲学の講義。

初回はガイダンスと導入だけですからいよいよ本格的な授業の開始となりました。

さて哲学において一番大切なこととは何かといえば、「それがはたしてそうなのか?」ということを、きちんと自分で確認するということです。

ソクラテス的言い方をするとすれば、「あなたが理解していることは果たして正しいのか」ということを「ここまでは理解している・ここから先は理解していないということ」をはっきりさせながら、「ほんとうの○○は何なんだろう」と確認していく作業に他なりません。

いわば、これまでインプリンティングされてきた臆見を精査していく……それが「哲学する」ということに他なりません。

これまで積み重ねてきた宿痾のようなそれはたやすく穿つことは困難かもしれませんが、そのひとつのきっかけになればと思う次第です。


履修される皆様、半期という短い間ではございますが宜しくお願いします。

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 人間の思考は、情念や空想や疲労などに引きずられやすく、変化しやすいものである。ところが、実際の活動は、毎日、そして一日のうち何時間も同じようにつづけられて行かねばならない。だから、思考とはかかわりのない、つまり、さまざまな関連をはなれた、活動の動機というものが必要になってくる。これが、偶像である。
    −−シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵ちくま学芸文庫、1995年、104−105頁。

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⇒ ココログ版 「わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)」ことの自覚と脱獄へ: Essais d'herméneutique