「瞬間の安心と完成を発見すること」は哲学ではない




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 哲学の本質はいかに言い表わされるか さてかくも一般的に、またかくも独特な形態をもって現れる哲学とはいかなるものでありましょうか。
 哲学者(philosophos)というギリシア語は、学者(sophos)と対立する言葉であって、知識をもつことによって知者と呼ばれる人と異なり、知識(知)を愛する人を意味する言葉であります。この言葉の意味は現在まで維持されてきております。すなわちそれは独断主義の形態、換言しますと、いろいろな命題として言い表された究極決定的な、完全な、そして教訓的な知の形態、をとることにおいて、しばしばこの言葉の意義を裏切っているのでありますが、哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。
 しかしこの途上にあること(Auf-dem-Wege-sein)−−時間のうちに存する人間の運命−−はそれ自身のうちに深い満足の可能性を隠しているのであります。特に高潮した完成の刹那においてそうなのです。このような可能性はけっして言葉で表わすことのできる知識や命題や認識のうちに存するのではなく、人間存在の歴史的な実現過程のうちに存するのであって、存在そのものはこの人間存在にとって現われ出るのであります。人間がそのつどおかれている状況のうちにこの現実をとらえることが「哲学すること」の意味なのであります。
 探究しながら途上にあること、あるいは瞬間の安心と完成を発見すること、これらの言葉はけっして哲学の定義ではないのであります。哲学には縦の組織とか横の組織とかいうものはないのです。哲学はある他のものからは導き出されない。哲学はいずれも自己を実現することによって自らを定義する。哲学とは何であるかということは、私たちによって実験されなければならないことなのです。かくて哲学は生きた思想の実現であり、またこの思想への反省であります。あるいは哲学は、行為であり、この行為について語ることであります。自己自身の実験からして、はじめて私たちは、世界の中において私たちが哲学として出会うところのものを感得することができるのであります。
    −−ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年、14−15頁。

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短大での哲学の講義、本日の分にて、「哲学とは何か」という主題の部分とその概要(歴史とテーマ)について終了。

このあとはテーマにしたがって議論するようにつくっているのですが、最初の3−4回目の講義で、学生さんたちひとりひとりの「哲学観」というものをぶっ壊す必要があります。

哲学は難しい……というのもそのひとつですが、それ以上に問題なのが……そして実はこのことは「哲学」という学問だけに限定されない問題でもあるということですが……次のことでしょう。

すなわち、哲学という学問を学ぶというこが、何かできあがった体系や理論を「覚える」「学ぶ」ということと捉えているというドクサです。

たしかに学習者の学習スタイルを「参与観察者」の視点から見るならば、古典と向き合い格闘するその様は、英語の学習や簿記の学習のように、機械的学習としての「覚える」「学ぶ」というように「見える」かもしれませんが、それはひとつのきっかけにすぎず、そこに哲学の本質はないということ。

たしかに膨大な哲学の業績を目の前にすると、そのように見えてしまう節もありますし、ヤスパース(Karl Theodor Jaspers、1883−1969)が「いろいろな命題として言い表された究極決定的な、完全な、そして教訓的な知の形態」と指摘するところもあって、そのように受け止められてしまう感もあるのですが(これは哲学学者の責任ですが、苦笑)、それイコール哲学ではありません。

カント(Immanuel Kant,1724−1804)は「哲学を学ぶことはできない。哲学を学ぶのではなく哲学することを学べ」と喝破しましたがそのへんのところです。

そこからどのように紡ぎ上げていくのか……。

それが知の所有者と違う、倦むことなく知を探究する「知識(知)を愛する人」としての哲学(者)ということです。

だから哲学を学んだとしても、それは何かの理論やら理屈やらを「知識として所有」することではありません(それが悪い訳じゃないし、それも必要だけど、ひとまず横に措きます)。

大切なのは、「哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究すること」そして「途上にあること(Auf-dem-Wege-sein)」です。

「完成の刹那」を峻厳に退けながら、どこまで迫っていくことができるのか、それが「哲学をする」ということに他なりませんし、だから「哲学を学ぶことはできない」。

そーいう認識としてのイメージのぶっ壊しといいますか、動執生疑はできたのではないかと思います。

だから、哲学は何も教えてくれませんよw





⇒ ココログ版 「瞬間の安心と完成を発見すること」は哲学ではない: Essais d'herméneutique





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