通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程



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 生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己の更新の過程である。教育と社会的生命の関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一に通信(コミュニケイション)による伝達にある。通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる形式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにあるのだが、そのことがもっとも容易に認められるのは未成熟者を扱う場合である。すなわち、あらゆる社会制度は事実上教育的であるけれども、その教育的効果は、まず年長者と年少者の共同生活との関連において、共同生活の目的の重要な部分となるのである。社会がいっそう複雑な構造や資産をもつようになるにしたがって、制度的(フォーマル)なつまり意図的な教授や学習の必要性が増大する。制度的な教授や訓練の範囲が拡大するにつれて、直接的な共同生活において獲得される経験と学校において獲得されるものとの間の好まらしからざる裂け目が産み出される危険が生ずる。この危険は、この二、三世紀の間における知識および技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえに、今日、これまでになく大きなものとなっているのである。
 デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育 上』岩波文庫、1975年、23−24頁。

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コミュニケーションとしてのメディアが腐敗するのは、それを生き物として育てようとしない利用する側……それが発信者であろうが受信者であろうが……の問題につきるのではあるまいか。

メディアに流通するものが言語であれ音声であれ、映像であれ……そこにはそれを発信し受益する生きた人間が存在します。

その意味では、いかにメディアは、「通信による伝達」の媒介に過ぎないとしても、生きたものとして育てていく責任というのも恐らく随伴するはずでしょう。

しかし、利用するなかで、できあがっていく構造を「できあがったもの」として享受し、それを「育てていく」視点を失ってしまうことが多々あるのではないかと思います。

「生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己の更新の過程である」。

「通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる形式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにある」。

デューイ(John Dewey、1859−1952)はメディア論として『民主主義と教育』を論じたわけではありませんが、民主主義と教育を媒介するメディアを育てていくという視点から読み直すとなかなか興味深いものです。

この指摘は深くかみしめるべきかと。






⇒ ココログ版 通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程: Essais d'herméneutique


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