卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない



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 世界には抑圧があり、わたしたちは多少とも隷属させられていることは、疑いのない事実である。抑圧され隷属させられている限り、わたしたちは、もはや人間ではなく、ものである。わたしたちは、明晰な意識を持ちながら、ものであることをうけいれることはできない。ものに還元されていると感じる限り、わたしたちは、自分を還元しているものを破壊するようかかり合い(アンガージェ)にされているのだ。
 わたしたちは、個人的に、この還元作用から脱却することもできるが、それはつねにうさん臭い形である。じじつ、そのためには、人間が根本において商品として扱われている世界に、参与しているのでなければならないし、わたしたち自身、少なくとも共犯関係を通じて、同胞たちを商品としているのでなければならない。真に脱却し得るためには、わたしたちは絶えず、ものとは違うように振舞い自分の個性を荒々しく主張しながら、自分が参与していることの結果を破壊するようにしなければなるまい。しかし、その主張を通じてしかものであることはやめられないとしても、その主張はわたしたちを、全般的な形で与件としてある人間性から隔絶するものだ。商品として扱われないものは、攻撃的に(他のひとたちに対立して)強調される個性なのである。わたしたちのうちにひそむ端的な人間性は、けっして真にあるがままに−−ものとはまったく違うものとして−−認知されることはない。わたしたちは、共通の人間性の否認しか主張しないのだ。陰険に裏切り者となっているのである。
 しかし、もし個性による脱出を拒み、共通の人間性を主張するなら−−ものでないことを、他のひとたちと同時に、おなじ資格でしか、うけいれまいとするなら−−わたしたちはまず、ものであることをうけいれなければならない。人類のすべてが抑圧することをやめてしまい、どこにも売物としてある人間である商品がなくなった時に、はじめてわたしたちは、還元作用から脱却することができるのである。それまでは、自由にあしらわれるものの水準、卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない。
    −−バタイユ(山本功訳)「政治的欺瞞」、『戦争/政治/実存 −−社会科学論集1 ジョルジュ・バタイユ著作集 第14巻』二見書房、1972年、111−112頁。

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20年ぶりにバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897−1962)を読み返していますが、フーコーMichel Foucault,1926−1984)やデリダJacques Derrida,1930−2004)に見られない“迫力”に似たものがありますね。

商品であることをうけいれることを拒否してしまうのは簡単なのですが、単純に拒否してしまうこと自体が、陰険な裏切り者となってしまう。

だとすれば、どこで脱出を構想するべきなのでしょうか。

「ものであることをうけいれなければならない」として「自由にあしらわれるものの水準、卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない」と説くバタイユには一種の誠実さを感じられずにはいません。



⇒ ココログ版 卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない: Essais d'herméneutique


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