自由に関しては、心を留めておくべき大切なことは、自由とは外面的な行動の無拘束状態というよりむしろ精神的態度を指すということ





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 真の個人主義は、信念の規範としての慣習や伝統の権威の支配のゆるみから生じた産物である。ギリシャ思想の最盛期のような、散発的事例は別として、それはわりに近代的な現象なのである。さまざまの個人の多様性がつねに存在していたことはたしかだが、保守的な慣習や支配している社会は、それらを抑圧するか、でなくても、少なくとも、それらを利用し奨励しはしないのである。しかしながら、いろいろな理由から、その新たな個人主義は、それまで一般に認められてきた信念を修正し変化させる力の発達を意味するものとしてではなく、各個人の心は他のあらゆるものから孤立して完全なものであるという主張として、哲学的解釈を与えられたのである。哲学の理論的方面においては、これは認識論の問題を生じた。すなわち、個人と世界との間にはどんな認識上の関係がありうるかという問題が生じた。その実践的方面においては、それは、全く個人的な意識が全般の利益すなわち社会の利益のために作用することがどうしてできるかという問題−−社会的指導の問題を−−を生じたのである。これらの問題を処理するために苦心して作り上げられてきた哲学は教育に直接影響を及ぼさなかったが、それらの基礎によこたわる家庭は、学習と管理、個性の自由と他人による統制の間に、しばしばつくられた分裂となって現われたのである。自由に関しては、心を留めておくべき大切なことは、自由とは外面的な行動の無拘束状態というよりむしろ精神的態度を指すということ、しかし、この心の性質は、探検や実験や応用などにおける十分な行動の余地なしでは、発達することができないということである。慣習に基礎をおく社会は、慣例に一致する限度までしか、個人的変異を利用しないだろう。画一性が、各階層の内部の主な理想なのである。進歩的な社会は、個人的変異の中にそれ自体の成長の手段を見出すから、それらの変異を大事なものと考える。それゆえ、民主的な社会は、その理想に従って、知的自由および多様な才能や興味の発揮を考慮にいれて教育政策を立てなければならないのである。
    −−デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育』岩波文庫、1975年、168ー169頁。

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さすがデューイ(John Dewey,1859−1952)。
うまくまとめていますねぇw

自由が最大限に享受されるためには、屹立した個人主義の確立が不可欠なわけですけれども、その経緯と効用に関してどストライクでまとめた一文でしたので、少し抜き書きした次第。

漱石夏目金之助(1867−1916)の指摘をまつまでもなく、明治以降、本朝で受容された個人主義とは、勝手し放題の我が儘主義。しかしそれは本来的な個人主義とは似て非なるもの。

本来の個人主義とは他者を自らと同じように扱う立場だから、「し放題」はできない流儀なのですけれども、まあ、現実としては、他者を「モノ」として扱う「孤人」主義とでもいうべきものがこの国土世間では、それとして理解されておりますが、そんな有象無象ではないことだけはひとつ把握すべき。

そしてそれをうまく利用して加速化させたのが、「信念の規範としての慣習や伝統の権威の支配」としての本朝の「公共」観なのでしょう。

それを保管するためにこそ、「個人主義」なんて糞食らえって式に、うまくのせられてしまって、「国家」にしか準拠しない「公」なるものに収斂されてしまう……。

まあ、これは「国家」だけの問題でなく、本朝のあらゆる共同組織にみられる現象ではありますが、ホント、3.11以降、この傾向がある意味でまたぞろ顕著になりはじめたなあ……というのが僕の実感です。

「画一性が、各階層の内部の主な理想」なんてやっていたのでは、「多様な才能や興味の発揮」なんて不可能なんですよ、ホント。

勘弁してくれ。




⇒ ココログ版 自由に関しては、心を留めておくべき大切なことは、自由とは外面的な行動の無拘束状態というよりむしろ精神的態度を指すということ: Essais d'herméneutique



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