覚え書 「ニュース争論:福島原発の来歴 武田徹氏/開沼博氏」、『毎日新聞』2011年8月1日(月)付。




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ニュース争論:福島原発の来歴 武田徹氏/開沼博

 東京電力福島第1原発事故の問題は、事故収束、放射性物質による汚染、健康被害、損害賠償、エネルギー政策など多岐にわたる。これらを考えるうえで改めて注視すべきは、福島原発を含めた日本の原発政策の来歴だ。ジャーナリストで評論家の武田徹さんと社会学者の開沼博さんが論じ合う。【立会人・岸俊光編集委員、写真・武市公孝】

 ◆対立越えリスクを減らせ−−ジャーナリスト・武田徹

 ◆地方の苦境知ることから−−社会学者・開沼博

◇事故前後の状況

 立会人 お二人は福島原発事故の前から原子力・核の問題を研究されていました。事故の印象はどうでしたか。

 武田 東日本大震災が起きる26分前に出張のために成田空港をたっていたので、海外で事故の報を聞きました。こんな事故が起きてほしくないという気持ちから02年に「『核』論」(「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」に改題)を出版したつもりだったのに、その期待が裏切られたのはどこかに戦略のミスがあったのでしょう。(事故リスクを減らす)世論をつくる力がなかった自分をすごく罪深く感じました。ただ、原子力反対派と推進派が不信感を持って向き合い、最良の妥協点を見いだせなくなっている事情を書いたアプローチの仕方は間違っていなかったと、今でも思っています。

 核についての取材を97年ごろに始めた理由は、反核運動になぜ力がないのか、疑問だったからです。99年のJCO臨界事故のような被害はまた出るだろう、一足飛びに廃炉を求めるのではなく、社会のリスクを減らせるよう、原発をめぐる議論がなぜこう着に陥ったかを考えたいと思いました。

 開沼 私は福島県いわき市に生まれ高校まで過ごしました。事故が起きるまでは、自分も原発安全神話にある程度洗脳されていたと思います。原発新興国などに輸出する中で、長い間には事故が起きる可能性もあるだろうと予測していましたが、国内、しかも福島とは想像しませんでした。事故後は、これまでと同じことが展開されているという既視感を覚えました。枝野幸男官房長官もテレビに出ている学者も、大丈夫だと言っているから何とかなるだろう、それ以外のことを言ってはまずいという雰囲気ですね。

 福島原発の立地地域で06年から調査を進めていますが、かつて多くの住民が口にしたのは「東電さんを信じるしかない」という言葉でした。青森県六ケ所村も事情は同じです。そこにはある種の「信心」があり、今も日本全体がそれを捨て切れていないと思います。

 ◇受容の戦後史
 立会人 アイゼンハワー米大統領は53年12月に国連総会で行った「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」演説で、原子力の平和利用を提案しました。日本の受容史とは?

 武田 演説の背景には旧ソ連の水爆実験成功(53年8月)がありました。核兵器を拡散させたくない米国は、軽水炉関連技術を供与して自由主義圏を結束させるシナリオを描いたとされています。ところが日本では直後に第五福竜丸の被ばく事件(54年3月)が起こり、原水爆禁止運動が全国に広がります。その中で原子力の平和利用をどう進めるかという日本独特の難題が持ち上がりました。元読売新聞社社主の正力松太郎(1885〜1969年)らが、米国の意向を受けて平和利用に向け世論を変える荒業をしたと言われます。当時は他のマスメディアも原発導入に積極的で、世論の合意がある程度つくられたのは50年代後半でした。

 開沼 55年体制の始まりであり高度経済成長の入り口でもあった55年に、原子力基本法は制定されました。偶然かもしれませんが象徴的で、これを無意識的に土台とすることによって私たちは日本社会をつくってきたと思います。さらにさかのぼると原爆があり、それが戦後を規定してきたのではないでしょうか。これを切り口にすると、中央と地方、中心と周辺、強者と弱者といった構造が見えてくる。平和利用を肯定し、いつの間にか原子力を社会の中で抱きかかえて今日に至ったことを認識すべきです。

 立会人 原発を受け入れてきた地方自治体の選択をどう見ていますか。

 開沼 時代によって状況は違いますが、例えば60年代のいわき市郡山市と一緒に新産業都市の指定を得ようとしていた。地方開発のさまざまな方法が模索され、その一つだった原発も今より価値中立的だったのかもしれません。70年以後になると危険性が認識されて、反対論も広がります。そうした中で郷土を守り、子や孫が暮らしていくためには原発に依存するしかないと考える首長が現れた、と私は分析しています。福島第1原発がある双葉町議会が原発増設を決議したのは91年でした。苦しい選択だったと思うし、「愛郷」の精神からそうせざるを得ない状況に追い込まれたのでしょう。

 武田 原発は絶対安全ではないが、リスクは確率的。一方で交付金は確実にもらえます。地元に住み続けるため原発誘致に賭けることにはそれなりに合理性がある。事故後にそれみたことかと非難するのはフェアではないし、地元の人の気持ちに配慮を欠きます。

 ◇科学技術の功罪
 立会人 武田さんは、科学者が善意で開発した技術も文脈次第で悪用されると指摘されています。他方、原子力の議論は善悪二元論になりがちです。

 武田 原爆を開発したオッペンハイマー(1904〜67年)は広島、長崎への原爆投下後に罪の意識にさいなまれ、「物理学者は罪を知った」と語りました。私はこれを核の封印を切った物理学者の自責の言葉と限定せず、人類一般、科学技術一般に広げて考えるべきだと思います。環境を工学的に改造するのが人間という種だとすれば、科学技術は人類史と同じぐらい古い。そして科学技術は必然的にリスクを生み出し、そのリスクを抑え込もうとまた科学技術を使う自転車操業にならざるを得ない宿命を負っています。

 放射線被ばくは目に見えず、原子力は扱いにくい技術だけれど、どんなエネルギー源もリスクは避けられない。当面は多様化でしのぐのが正しい、と思います。それぞれを過剰に信じず、単純化の怖さに意識的でありたい。

 開沼 「ポスト原発」を60年代から探し続け、それにことごとく失敗してきたのが福島の歴史でした。事故後に地元でインタビューしたところ、原発関係で雇用されていたかなりの割合がまたそこで働き始めています。危ないと思わないのかと尋ねると、「元の給与水準でそんなにいい仕事はない」という声が返ってきます。原発を抱える自治体は似たような状況にあるのではないか。答えは簡単に見つかりませんが、当事者の声を聞き考えるところから始めるしかないと思っています。

 ■聞いて一言

 ◇向米と自立に揺れた日本の非核と原子力
 日米の核「密約」を調べた時、米政府が原子力の平和利用や核兵器の存在を「肯定も否定もしない(NCND)」政策などを50年代に次々打ち出したことに気がついた。平和利用は軍用の副産物であった。非核三原則の一方で米国の核の傘に頼り、原子力を推進する日本の政策は、向米と自立の揺れを映し出す。核と原子力の使い分けは現実から目をそらすものではなかったか。

 もう一つの重要な指摘は地方を置き去りにしてきた近代化の影だ。福島は長い間、中央への電力供給源だった。再生可能エネルギーも構造を変えるのは容易ではないだろう。今の復興論に欠けたこの視点を共有したい。(岸)

 ■人物略歴
 ◇たけだ・とおる
 1958年生まれ。恵泉女学園大教授。国際基督教大博士課程修了。著書に「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」「原発報道とメディア」。
 ◇かいぬま・ひろし
 1984年生まれ。東京大大学院修士課程修了。現在、同博士課程在籍。著書に「『フクシマ』論−−原子力ムラはなぜ生まれたのか」。
    −−「ニュース争論:福島原発の来歴 武田徹氏/開沼博氏」、『毎日新聞』2011年8月1日(月)付。

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http://mainichi.jp/select/opinion/souron/news/20110801ddm004070158000c.html









⇒ ココログ版 覚え書 「ニュース争論:福島原発の来歴 武田徹氏/開沼博氏」、『毎日新聞』2011年8月1日(月)付。: Essais d'herméneutique


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