「正しきをおこない、なにびとをも恐れるな」ということわざだけでは、この世を渡ることはできない
-
-
-
- -
-
-
八月十日
「正しきをおこない、なにびとをも恐れるな」ということわざだけでは、この世を渡ることはできない。まず、だれも全く正しいおこないはできないし、その意味ですでに前提が欠けている。次に、なにびとも、たとえ最も身分の高い人でも、他人の奉仕や好意に頼らずには生きてゆけないのである。だからこの言葉は、たいていは傲慢でかたくなな心情の表れにすぎず、しかも望みどおりの効果を収めることができない。こんな言葉は一種の無知やおごりのせい(だからだれからもひどく反撥される)であるか、さもなければ、それは「平々凡々たるやから」の逃げ口上にすぎない。
−−ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第二部』岩波文庫、1973年、180頁。
-
-
-
- -
-
-
久しぶりにヒルティ(Carl Hilty,1833−1909)を読み直しておりましたが、いやはや……。
染み込みますね。
ヒルティは確かにキリスト教倫理に基づく訓戒風の書き物が多いのですが、単なる訓戒を羅列したというよりは、その落とし穴までさりげなく同時に指摘する勇気と英知にいつも、「まいったな」ってなってしまいます。
確かに「枕頭の一書」と呼ばれるだけの所以はありますね。
「正しきをおこない、なにびとをも恐れるな」というのは普遍のルール、矜持かもしれません。しかしそのことばだけでは世を渡ることはできませんが、かといって全否定する必要もないわけですが、どのように現実を深く認識し、洞察し、そこから組み立て直していくのか……その労作業が割愛された場合、うまく機能しないというものなんでしょうねぇ。
⇒ ココログ版 「正しきをおこない、なにびとをも恐れるな」ということわざだけでは、この世を渡ることはできない: Essais d'herméneutique