西田幾多郎の読書論、「多くの可能の中から或一つの方向を定めた人の書物から、他にこういう行方もあったということ」の探究




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 何人もいうことであり、いうまでもないことと思うが、私は一時代を画したような偉大な思想家、大きな思想の流の淵源となったような人の書いたものを読むべきだと思う。かかる思想家の思想が掴まるれば、その流派というようなものは、恰も蔓をたぐるように理解せられて行くのであるむろん困難な思想家には多少の手引というものを要するが、単に概論的なものや末書的なものばかり多く読むのはよくないと思う。人は往々何々の本はむつかしいという。ただむつかしいのみで、無内容なものならば、読む必要もないが、自分の思想が及ばないのでむつかしいのなら、何処までもぶつかって行くべきではないか。しかし偉大の思想の淵源となった人の書を読むといっても、例えばプラトンさえ読めばそれでよいという如き考には同意することはできない。ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい。特にそういう思想がどういう歴史的地盤において生じ、如何なる意義を有するかを知り置く必要があると思う。況して今日の如く、在来の思想が行き詰まったかに考えられ、我々が何か新に蹈み出さねばならぬと思う時代には尚更と思うのである。如何に偉大な思想家でも、一派の考が定まるということは、色々の可能の中の一つに定まることである。それが行詰った時、それを超えることは、この方に進むことによってでなく、元に還って考えて見ることによらなければならない。如何にしてこういう方向に来たかということを。而してそういう意味においても、また思想の淵源をなした人の書いたものを読むべきだといい得る。多くの可能の中から或一つの方向を定めた人の書物から、他にこういう行方もあったということが示唆せられることがあるものでもあろう。
    −−西田幾多郎「読書」、『続思索と体験 「続思索と体験」以後』岩波文庫、1980年、246−247頁。

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西田幾多郎(1870−1945)の読書論をひとつ紹介しておきます。

冒頭で西田が「一時代を画したような偉大な思想家、大きな思想の流の淵源となったような人の書いたものを読むべきだ」ということは誰も否定できません。

しかし具体的に「どう読むのか」になると詳論してくれる論者というのは少ないものです。

では「一時代を画したような偉大な思想家」の著作をどのように読めばいいのでしょうか。たしかに「一時代を画したような偉大な思想家」というものは「むつかしい」ことは否定できません。しかし、「自分の思想が及ばないのでむつかしいのなら、何処までもぶつかって行くべきではないか」というのも筋であることは間違いないでしょう。

術語や概念、思想史的背景を踏まえて読む必要上から「多少の手引」を必要とはしますが、そうしたものばかり読んでいても始まりません。だからこそ「多少の手引」を案内・方便としつつも「何処までもぶつかって行くべきではないか」というわけです。

さて……。
そうして「一時代を画したような偉大な思想家」の著作と向き合うことによって、何に到達すればよいのでしょうか。専門家でなくてもそうした著作は読むべきだと僕は思いますが、それは重箱の隅を突くような釈義の爪をしてもしょうがないでしょう。

だとすれば、それをやはり現在の問題として捉えながら、反省しながら、自分自身の問題として読んでいくしかありませんよね。

西田曰く……

「何に偉大な思想家でも、一派の考が定まるということは、色々の可能の中の一つに定まることである。それが行詰った時、それを超えることは、この方に進むことによってでなく、元に還って考えて見ることによらなければならない」

ここでしょうか。

今日、現代の積み重ねが歴史であるとすれば、今日、現代というのは昨日・今日に一挙に立ち上がったものではありません。

現在という時代は、何かしらの思想や考え方を元にして……そして正確にいうならばそうした思想や考え方のもつ多様な可能性を省捨して、絶対化された一つに基づいて……デザインされているわけですから、その問題を見直すためには、遡って、「色々の可能の中」を省察しながら、そしてまた現代へと還っていくしかありません。何しろ、我々は無から何かを創造することもできませんし、その問題のある現象に対して、パブロフの犬のごとく「no」と叫び続けても非生産的ですしね。

だとすれば、やはり、「元に還って考えて見ることによらなければならない」。

「多くの可能の中から或一つの方向を定めた人の書物から、他にこういう行方もあったということ」……これは人から教えてもらって「はあ、そうですか」となるものではありません。自分で苦労して掴みとるしかありませんが、これがマア、いわば読書……しかもそれは「一時代を画したような偉大な思想家」の著作を読む……醍醐味というやつではないかと思います。

短い文章ですが、さすが、西田幾多郎。味わい深いものですね。







⇒ ココログ版 西田幾多郎の読書論、「多くの可能の中から或一つの方向を定めた人の書物から、他にこういう行方もあったということ」の探究: Essais d'herméneutique



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