単純で、善良で、物静かで、落着きあり、教養ある−−それからその生活ぶりにおいてもまた考え方においても少しく『古風』な人






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 私の最も好きななのはいかなる種類の人であるか。
 既に述べた通り、それは単純で、善良で、物静かで、落着きあり、教養ある−−それからその生活ぶりにおいてもまた考え方においても少しく『古風』な人である。落着きなき、気の変わりやすい、操人形のような、神経衰弱性の『デカダン者流』に対しては、私は殆ど一種の肉体的嫌悪を感ずる。私にとってこれと同じ程度に不快の念を催さしめる者は、一言半句にも拘泥してその真偽を決定せんとし、また何から何まですべて自分に関係さして考えるところの、かの諧謔を解せぬ頭の狭苦しい人々(ミクロケファーレン)である。
    −−久保勉訳『ケーベル博士随筆集』岩波文庫、1957年、27頁。

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昨日と同じくケーベル(Raphael von Koeber, 1848−1923)先生の一節の紹介ですいません。

何しろ、原稿が仕上がらないっていうのと、作業中に作業用PCがブッコしてしまったので、週に一度の休日にもかかわらず、生産性の低い一日となってしまったことに拘泥してしまい……orzというところです。

まあ、しかし、そうした瑣事に振り回されず・・・これがメンドイのですが・・・、「単純で、善良で、物静かで、落着きあり、教養ある−−それからその生活ぶりにおいてもまた考え方においても少しく『古風』な人」として生きていきたいものですネ。

そのためには、信念とか風体としては『古風』であったとしても、何に対しても「開かれた精神」であり続けなければ、「一言半句にも拘泥してその真偽を決定せんとし、また何から何まですべて自分に関係さして考えるところの、かの諧謔を解せぬ頭の狭苦しい人々」になってしまうのかも知れませんネ。

しかし……。

ふうむ。

いや……、

また今日からがんばろう。

以上。






⇒ ココログ版 単純で、善良で、物静かで、落着きあり、教養ある--それからその生活ぶりにおいてもまた考え方においても少しく『古風』な人: Essais d'herméneutique


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