自分の死を子供が深く悲しまぬように、わざと飲めもせぬ酒を一口飲み、すえもせぬ煙草を一口すい、ユーモアの芝居をみせてくれた「所作」と「言葉」……。




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 上智大学にデーケンという素晴らしい神父がおられる。彼は昔から「死の準備教育」「悲しみの教育」を若いときから学ばねばならぬと提唱されている。その教育を受けることによって、人間すべてに訪れる死を静かに迎え入れるよう準備しておくのだ。
 「悲しみの教育」のほうは配偶者に先だたれた者がどうしても孤独と空虚のなかで押しつぶされていく−−その試練に耐えるため、あらかじめ心の準備をする教育なのである。
 デーケン先生は私の尊敬する神父の一人だが、彼はユーモアというものを強調する。
 神父からこういう噺をうかがったことがある。
 神父の御母堂が臨終の時、お子さまたちが心配して集まった。
 御母堂はお子さまたちにこう言った。
 「わたしにお酒を一杯くれない」
 子供たちは驚いた。御母堂は平生、酒を召し上がらない方だったからである。
 子供がコップにお酒を入れてわたすと、それを一口のんで、
 「ああ、おいしい。ついでに煙草を一本くれない」
 子供たちは更に仰天をした。御母堂は煙草をすう人ではなかったからである。
 仕方なく一本わたすと、
 「前から一度煙草をすってみたかった」
 と言い、一口、煙をすってから、
 「満足。これで眠れるわ」
 と言い、それから息を引きとられたという。
 この噺をうかがった時、私はデーケン先生の御母堂の、子供へのやさしさ、愛にうたれた。自分の死を子供が深く悲しまぬように、わざと飲めもせぬ酒を一口飲み、すえもせぬ煙草を一口すい、ユーモアの芝居をみせてくれた御母堂なのである。素晴らしい御母堂なのである。
 ねがわくは私も死ぬ時は右のようなユーモアで死ねればと願っているが、私などにできますかなァ。
    −−遠藤周作「我が子を思う親心」、『変わるものと変わらぬもの』文春文庫、1993年、174−175頁。

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優れた作家というのは、優れた随筆家でもあるもんだ……と常々思っているわけですが、毎度毎度のことながら、狐狸庵先生こと遠藤周作先生(1923−1996)の随想にはうならせられてしまいます。

小説もそうなんですが、荘厳な設定のなかに「ちょいとした」ユーモアがあるからなんだろうと思いますが、人生においてもこの「ちょいとした」というものが必要かもしれませんね。

「ちょいと」というのは漢字で書くと「一寸」。度量衡では3センチ弱というところでしょうか……。

このへんの「余裕」というものがないと、人間の生活世界というものはモノクロームな風情になるってものかも知れません。

さて……。
遠藤周作先生は、「死生学」( thanatology)で有名なデーケン師(Alfons Deeken,1932−)のエピソードをさらりと紹介しておりますが、この部分も同じかも。

通俗的に現代文明は……通俗的な批判だから厭なのだけれども……、「死を忘れた文明」と俗に言われますが、その、学問における最大の問題のひとつは何かといえば、やはり、計量化と再現可能性と座学を圧倒的なものしたことなのかもしれませんね。もちろん、計量化・再現可能性・(そしてその学習としての)座学の一切合切を否定するわけではありません。

しかし、それだけではない、所作や息吹というものも人間世界には存在するということは否定できない事実。

……その意味では、死生学……たしかに「学」ですから「座学」と「講義」を軸にアカデミズムされますけれども、それは横に置く……というものは、計量化とか再現可能性とか座学でフォローしきれない「根元的なるもの」へ人々の眼をたち戻させたという意味では、甚大な意味があるのだと思います。

ユーモアや、それを発動させるウィットというものは、どこまでも個人的なもの……もちろん家庭教育や文化的制約による「訓育」がなければそれはどこまでも発動しないものですが……だから「恣意的」=「再現不可能」として退け、鋭利にとぎすませてきたのが現代の学問。

しかし、それだけでは、人間のトータリティは理解できない。

そのひとつが、死生学の挑戦かも知れません。

思い返せば「哲学は死のリハーサル」と言葉を残したのはプラトン(Plato,424/423 BC−348/347 BC)。

しかしプラトンは一冊も活字を残さなかったソクラテス(Socrates,469 BC−399 BC)が存在しなければ、活字魔・プラトンは存在し得なかった……。

と、同時に、著作を全く後世に伝えなかったソクラテスは、プラトンの筆記がなければ、二千年を経た現代にその息吹が伝わらなかった……とすれば、「恣意的か」「非恣意的か」という枠組みは、ホントに単なる作業仮説にしか過ぎないものかもしれませんネ。
※だからといって江原啓之(1964−)のようなアプローチは勘弁して欲しいけれども(苦笑

ユーモアの所作とユーモアを「言語化」する努力。

これは別々のものではなくひとつもののうらとおもてであり、その両方を大切にしながら、ユーモアの感覚っていう奴をきちんと養っていきたいものですね。

※例の如く呑みながら書いているのでイミフですいましぇん、。

……てか、昨日、細君の祖母が御遷化されてました。

合掌。







⇒ ココログ版 自分の死を子供が深く悲しまぬように、わざと飲めもせぬ酒を一口飲み、すえもせぬ煙草を一口すい、ユーモアの芝居をみせてくれた「所作」と「言葉」……。 : Essais d'herméneutique


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