家族

日記:「戦争反対」でパクられてぶちのめされる世界のおぞましさについて

授業すんで国分寺で呑んでから帰宅しましたら、小学六年生の子どもが『はだしのゲン』を読んでいましたよ。漫画ではなく絵本でしたが(GWに購入したやつ)。 中沢啓治さんの作・絵による「絵本」もあることは知りませんでした。安倍晋三と公明党とそれを支援…

日記:信念を曲げないと柔軟さの相関関係へ成長すること

どういう訳だか分からないのだけど、うちのお子さま(小5)が、割と生命尊厳の原理主義者。もちろん、肉も魚も「食べる」ので、その意義は十全に理解しているとは言い難いのだけど、目の前で、生命が「殺される」ことには断固として立ち向かう。これは在る…

覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 アメリカ家族の日本化?=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年04月02日(水)付。

- くらしの明日 私の社会保障論 アメリカ家族の日本化? 山田昌弘 中央大教授日本社会でよくみられる現象が米国でも起きているーーという内容の本が最近、相次いで2冊翻訳され、話題になっている。 1冊は「親元暮らしという戦略」(キャサリン・S ・ニュー…

日記:応答することの可能性として生みだされる私

- 語りにおいて私は〈他者〉からの問いかけにさらされ、応答することを迫られ−−現在の鋭い切り先によって−−私は、応答することの可能性〔責任〕として生みだされる。責任あるもの〔応答しうるもの〕として、私は自分の最終的な実存に連れ戻される。こうした…

日記:横浜ぶらり

義父母と横浜観光……といっても、はとバスのツアーですがw……しましたので、その記録を残しておきます。コースは、新宿・東京駅発〜1)港の見える公園 2)中華街 3)マリンタワー〜山下公園 4)水上バスにて赤煉瓦倉庫街 〜東京駅わりと強行軍でした。1…

わが身を忘れて、心を浄めたときに、はじめて他人の心をも浄めることができた

- この時、洗礼の子は、あのとき百姓女が手拭いをきれいに洗った時に、はじめて、テーブルがきれいにふけたことを思いだした。つまり、彼がわが身を忘れて、心を浄めたときに、はじめて他人の心をも浄めることができたのであった。 なお、追剥ぎは言った−− …

父の日の散策。

昨日は、青春を過ごしたw 中野区に所用があり、午前中に用事を済ませてから、子供がブロードウェイに用事があるとのことにて散策してきました。少し懐かしい時間を過ごすと共に、心身共に充電することができたように思います。また、その日は父の日というこ…

無理をして出かけるということ=我慢なのか?

日曜は、2.5週間ぶりの休日なんだけど(ヤッタ!、家族との約束で、その付き添いというか、色々しないといけない。ホントはゆっくり休むとか自分の仕事(論文を書くとか)したいんだけどそういうわけにもいかない。思えば、少年の頃、釣りが好きで、疲れた親…

たまこ 20130521wed

ちょうど1週間前に避妊手術をしまして、21日の水曜日に抜糸完了にて、一連の処置が終わりました。術後2日ぐらいは、かなり疲れておりましたが、今週の頭から、だいぶ活動的になり、抜糸後は、本調子に戻りました。これで、また宅内で大暴れしそうです(>

たまこの帰還

水曜の朝、珠子が入院して避妊手術を受けました。午後に病院から電話があって無事終了したとの由。木曜日に迎えに行きました。1日だけですが、帰宅して彼女がいないと寂しいものです(涙病院に預けたその日、珠子を病院を連れてって検査して預けて帰ろう細…

葬儀という「文化」

4月24日の水曜日の朝。91歳で祖母(父の母)が無くなりました。夕方、連絡を受け、その日の夜勤をこなし、翌朝からの仕事へ出勤して、忌引きの調整をして、夜遅くに実家へ戻り、ご挨拶を済ませてきました。金曜日の朝、葬儀。骨あげと初七日を済ませ、…

「日本の航空技術100年展」の特別展示「零戦展示」への「旅」

- 人はなぜ旅をするか 中村 インドの哲学者や行者には、どこかにこもり、じっと一か所にいて瞑想にふけり、真実を深めている人がいます。 しかし、私はやはり旅をしたい。旅をしますと、非常に新鮮な感銘をうける。旅は自分がもっていないもの、あるいは自分…

むかしの東京も、マドリードに劣らぬほどの緑に包まれていたのだよ

- 緑陰 数年前の晩夏に、スペインの首都マドリードへ行ったとき、同行の若い友人のS君が、石造りの大建築群を圧倒するような濃い緑にびっくりしていたが、私は、こういった。 「むかしの東京も、マドリードに劣らぬほどの緑に包まれていたのだよ」 「ほんと…

「全体の未来を守るという責任性」という観点から

- 責任性の感覚というのはどういうことかといいますと、人間がみずからの命を守っていくことと同時に人間以外のすべての生あるものの未来、たとえば動物種、植物種の未来、音楽や芸術や映画といった非身体的な価値の未来、あるいは時間に対する人間の関係の…

2012年12月7日の震度5弱とたま

金曜日、夕刻に久ぶりに大きな地震がありました(2012年12月7日午後5時18分頃 三陸沖地震 震度5弱)。ちょうどその時、今月からはじめたバイトの工場で仕事をしていたのですが、下から突き上げるというよりも、横に大きく長くゆれるなーと思いつつ、かなり驚…

一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えている

- 単眼的なアプローチは、世界中のほぼすべての人を誤解するには、もってこいの方法となるだろう。通常の暮らしでは、われわれは自分がさまざまな集団の一員であると考えている。そのすべてに帰属しているのだ。一人の人間がなんら矛盾することなく、アメリ…

「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである

- 「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかしそのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。 −−和辻哲郎『風土』岩波文庫、1979年、106…

これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから

- それゆえ、教育は、児童に対して、早くから次のことを認識させねばならない。すなわち歴史によって弾劾を受け、今日もなお受けつつある因襲的、人為的な限界のほかに、われわれ各人の人間性に深く根ざした、自然的な限界が存在するということである。それ…

「山から銅を採って、日本の国を豊にするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、そのために多くの農民をぎせいにすることは、絶対に許されませぬ」。

- こうして、二十年余りも足尾銅山の鉱毒と戦い、つかれ果てた正造は、一九一三年(大正二年)の八月二日、立ち寄った栃木県吾妻村の農家で突然たおれた。そして、心配して集まってきた人々に、正造は、 「わしの命を気づかう代わりに、みんなが心を一つにし…

9歳になる君へ:あんたから見てわしがキリスト教徒なら、あんたもわしから見ればユダヤ教徒と申せますからな、宗旨は違っても人情は一つなのです。

- 修士 ああ、ナータンさん! 貴方がキリスト教徒だ! いや、本当のキリスト教徒だ! 第一等のキリスト教徒ですよ! ナータン 結構な話です! あんたから見てわしがキリスト教徒なら、あんたもわしから見ればユダヤ教徒と申せますからな、宗旨は違っても人情…

意識とは、生きることが、Erleben〔体験〕が、経験が、自己へと現前すること

- ……意識とは、生きることが、Erleben〔体験〕が、経験が、自己へと現前すること(プレザンス)なのである。経験は単純なものであって、本質的に、錯覚いよって触発されることは決してないのである。経験は、ある種の絶対的な近さ(プロクシミテ)の中にある…

自分の死を子供が深く悲しまぬように、わざと飲めもせぬ酒を一口飲み、すえもせぬ煙草を一口すい、ユーモアの芝居をみせてくれた「所作」と「言葉」……。

- 上智大学にデーケンという素晴らしい神父がおられる。彼は昔から「死の準備教育」「悲しみの教育」を若いときから学ばねばならぬと提唱されている。その教育を受けることによって、人間すべてに訪れる死を静かに迎え入れるよう準備しておくのだ。 「悲しみ…

「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」……といわれても

- 人間すべてに共通なものは、性質というようなものではなく、条件、即ち、限界と、制限の集りである。どうしても死なねばならぬとか、生きるためには働かねばならぬとか、既に他の人間達が住んでいる世界に後から存在せねばならぬとかいう必然性である。こ…

愛はまことに家庭から始まります。私たちは、ことばでではなく、行動で、生活のなかで分かちあい、与えながらお互いを愛さねなければなりません

- 人間というものは神が、神の形に似せてより大きなもの、つまり、愛し、愛されるために創られたわけです。その愛を破壊し、そして人間という命を破壊するということは、それがなんであれまちがったことであり、罪なのです。 それがたとえ核兵器であれ、ある…

「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。

- 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、としての意味の次元にとど…

日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心

- 日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心なのであります。またそこに文化の根元が潜みます。人間の真価は、その日常の暮らしの中に、最も正直に示されるでありましょう。 −−柳宗悦『手仕事の日本』岩波文庫、1985年、231頁。 - 先日、キャベツの中から…

科学的教養を身につける努力

- ウィリアム・ジェームズ以来、しばしば、こういうことがくりかえし言われてきた。教養のある人は誰でも、宿命的に、何か一つの形而上学を信条としている、と。しかしわれわれには、次のように言ったほうが、もっと正確であると思われる。すなわち、どんな…

上野動物公園のパンダ、そして「何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない」こと。

- 定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない。 証明 この定理の証明、あるいはむしろこの事実そのものはそれ自体で明白であり、また欲望…

俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している

- 生命は幸福に対する志向である。幸福への志向が生命である。あらゆる人が生命をこう理解してきたし、現に理解しており、常にこう理解しつづけるだろう。それゆえ、人間の生命は人間的な幸福への志向であり、人間的な幸福への志向が人間の生命なのである。…

自然の意味を考えると、われわれは自然がひとつの訓育だという新しい事実にたちどころに到達する

- 自然の意味を考えると、われわれは自然がひとつの訓育だという新しい事実にたちどころに到達する。世界のこの効用には、それ自身の部分として、これまでに述べたさまざまな効用がふくまれている。 空間、時間、社会、労働、寄稿、食物、運動、動物、機械力…