計画から目的を切り離し、目的から計画を切り離すということ。







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 くそまじめな人は、計画が目的を決定している以上、計画から目的を切り離し、目的にはそれ自体の価値を認めようと主張します。つまり、価値というものは、人間以前に、人間なしで、世界に存在していると信じているわけで、人間は、それを摘みとりさえすればいいというのでしょう。しかし、すでにスピノザが、そして、ヘーゲルがより決定的に、この偽の客観性の幻影を追い払ったはずです。ここにまた偽の主観性があります。これは前者とは正反対に、目的から計画を切り離すことを主張し、計画を単なる遊び、気晴らしと見ようとします。この主観性は、世界にいかなる価値が存在していることをも否定するのです。とりもなおさず、この主観性は、人間の超越性を否定して、人間を、その唯一の内在性に還元しようと主張しているからです。欲望する人間、明晰に計画する人間は、その欲望において真摯です。すなわち、彼は一つの目的を欲しています。ほかのどんな目的も排して、その目的を欲しています。しかし、彼はその目的に立ちどまるために欲するのではなくて、それを楽しむために欲するのです。つまり、その目的が追い越されるためには、彼はその目的を欲するのです。どんな目的にも同時に出発点である以上、目的の観念は曖昧です。だからと言って、このことは、それが目的として目標されうることのさまたげにはなりません。つまり、人間の自由性が在るのは、実にこの権限内なのです。
    −−ボーヴォワール(青柳瑞穂訳)『人間について新潮文庫、昭和五十五年、33−34頁。

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サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905−1980)のように著しく人間の“決断”ばかりを強調しようとは思いませんし、古典物理学者のように真理の実在論を素朴に観照しようとも思いません。

ただ、本当に「くそまじめ」に生きようと思うならば、そうした極端を排しながら、ひとつひとつを確認しながら進むほかないんだとは思うだけなんですが、そこでおそらく大切になってくるのは、生きている人間の嗅覚のような「まっとうな」感覚なんじゃないかとはフト思います。

それをウマイ看板で麻痺させてしまうのが「計画から目的を切り離す」アプローチであり、そのまた対極にある「目的から計画を切り離す」それなんじゃないかと思う。

どちらも「似非」の目的−手段論に他ならないんだけど、人間は歴史を振り返ることこれに籠絡されてきたきらいが強い。

しかし、どちらに依拠するにせよ、それは上手く機能して来なかったのも事実。

そこから何を学び、どう展開していくことができるのか……。

昨今、試されているような気がします。

雑感ですけどネ。

少しボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir,1908−1986)の指摘を味わいたいと思います。








⇒ ココログ版 計画から目的を切り離し、目的から計画を切り離すということ。: Essais d'herméneutique


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人間について (新潮文庫)

人間について (新潮文庫)