反原発葬列デモに関しての違和感(1)





☆ 大阪での葬列デモのまとめ
大阪での葬列デモのまとめ - Togetter

まとめ者の紹介「平成23年9月1日と10月18日に大阪で行われた、子どもの葬儀を模した「葬列予報」と称する反原発デモ。正直、理解できない。」


すでに論じ尽くされている問題だし、twitterでも少し整理しないまま言及した話題なんだけど僕の考え方を記録として残しておきます。

ぼくも「正直、理解できない」。


論点は3つ。

1つ目は、どのような大義名分(目的)を掲げようとも、それにふさわしい手段が伴わない限り問題の解決は不可能である。

2つ目は、死生観の問題から。宗教者が「死は負」と規定することには抵抗があること。

そして3つ目は、あらゆる表現規制は国家や社会集団によって規定されるべきではないが、表現の自由を守るためには、人間を尊重する眼差しが必ず必要だということ。

何度か言及していますが、僕は消極的な……過激なという意味に対比するという意味ですが……脱原発と自己規定しておりますが、うえの理由から、原発を否定し、放射能と戦うために、「葬列デモ」に関しては賛同することができません。

※メインは1つ目です。僕が「葬列デモ」に関して「賛同できない」と表現しましたが「唾棄しそうになった」最大の理由だからです。2と3はおまけと考えてもらっても結構です。


まず一つ目から……。

東日本大震災とそれに伴う原子力発電所事故によって、原子力はもうこりごりだと思うようになった日本人は少なからずいるかと思います。もちろん、震災以前から取り組んでいる事例もありますし、以後、取り組むようになった方もいらっしゃいますが、大勢としては、代換案は即座に出せないけれども、もうそろそろ違う取り組みをやっていかなければならないんじゃないかというのがホンネの部分ではないかと思います。

僕はその取り組みを全否定しようとは思いませんし、国民の民意形成によってそうスライドさせていくべきであるということは賛同します。

しかし、それを実現するためには、何をやってもいいという発想に関しては、看板を「反原発」「脱原発」と掲げようが、「差別反対」「戦争反対」「自由な人生を」etc……と何を掲げようが、「それを実現するためには何をやってもいいという発想」には賛同することができません。

歴史を振り返ってみれば、人類の悲劇の殆どには、「目的を達成するためには、どんな手段を使っても許される」という“薄汚さ”が随伴したことが大きく関与したことは否定できません。小さな犯罪から世界的な大量殺戮に至るまで「大義」を達成するためには、手段を選ばなかったことが、大義からほどとおくなったという事例を指摘するならば枚挙に暇がありません。
※もちろん、そうした問題の掲げた「大義」は、今回の私たちの掲げる「大義」とは理念も質も全くことなるものですよ……という議論もあるでしょうが、掲げる大義が気高いものであればあるほど、よりそこは(排他主義的なという意味ではない、自分自身を批判する眼差しとしての)「清潔さ」は必要じゃないですかね……とは思います。

確かに、原子力にNOを突きつけることは、それは人種や性などあらゆる差異を超えて「共通」して降りかかる災禍をなんとかしようという挑戦ですから、そのこと自体を否定しようとは思いません。

しかし、諄いのですが、そういう崇高な目的を達成することを目指すのであれば、何をやってもいいという戦略ではまずいという話しです。

否、一層厳しくそして賢く戦略を練り、敵とされる人をもが「あっぱれ」と思うほどの最高の闘いによって、すなわち美しい闘い(手段)でなければならないんじゃないかと思わざるを得ないんです。

ひょっこかも知れませんが。


僕は常々公言している通りガンジーは単なるナショナリストに過ぎない面があるから全肯定はできないけれど、ガンジーが手段と目的とを分けることの間違いを指摘していることには頷かざるを得ません。よき目的達成のためには、どんな手段をつかってもよいのだという考えの陥穽です。

少しガンジーの言葉を紹介します。



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まず第一に、イギリス人が暴力を用いての彼らの目的を達成したのだから、われわれも同じ手段に訴えて目的を果たしてよいではないかという議論から始めましょう。
 彼らが暴力を使ったということ、そしてわれわれにだって同じような行動をとることができるというのは、まさにそのとおりです。けれども、同じような手段を用いたのでは、われわれも彼らが得たのと同じものしか得られません。われわれはそんなものを望んでいるのでないことは、あなたも認めていられるでしょう。……もしわたしがあなたから時計を奪おうと思うなら、きっとわたしはそのために格闘しなければならないでしょう。あなたの時計を買いとろうというのであれば、それ相当の額を支払わなければなりません。また、もし贈り物としてもらいたいのなら、そのことを懇願しなければならないでしょう。このように、わたしが採る手段によって、時計は盗品にもなれば、財産にも、贈り物にもなる。かくして、三つの相異なる手段から、三つの相異なる結果が生じることがわかります。
    −−ガンジー(森本達雄訳)『わが非暴力の闘い』第三文明社、2001年。

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このへんはきちんとやっていかないとやっぱりマズイよなと思う忸怩たるアレですから積極的に何かというわけでなく、おまえが敵を利するのだといわれてしまえばそれまでですが、もうそういう連鎖(何をやってもいい)というのは卒業しないといけないのじゃないかとは思うんですね。

目的達成のためには……それがどのような崇高な目的であろうとも……何をやってもよい、これが人類を最大限に苦しめ原因であるというのがガンジーの指摘。そしてその手段として出てくるのが暴力です。よき目的達成のためにはよき手段が随伴しなければならない。このガンジーの叫びは明記すべきかと思います。

当事者たちは次のように表現しています。



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こうした表現については、福島の方を傷つけることになるのではないか?
このような厳しい表現は残酷すぎるのではないか?
様々な議論がありました。
しかし、現実に進行してしまっている汚染の実態を放置すれば、
近い将来にこのような悲劇が起こることは残念ながら避けられないでしょう。

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さて、はっきり言いましょう。まったく理由になりません。

葬列デモを見ていて僕が不快なのは、現にまだ生きている人間の葬送を「戦略」として選んだことに起因します。

「おまえはすでに死んでいる」と宣告できるのは漫画『北斗の拳』のなかの話しで十分ですし、同調同圧をお家芸とする管理学校教育で励行されるいじめの葬式ごっこと心根は五十歩百歩。

デモでそうしたセレモニーをする傍らで、今、現実に生きている人が存在します。
どのような目的を掲げようとも「死」を宣告する権利やそれを「ネタ」として利用する必要は全くありません。

被災地で全てを失い今なお苦闘しながら生きている人。
住む家を追われ故郷を離れざるを得なくなった人々。

そしてスルーされガチなので……一番頭に来るのですが……「東京電力福島第一原子力発電所」敷地内外で、収束作業をあの日からずっーと作業している人々。

放射能を大量に浴びることがよくないことは承知している。
しかし、それにNOを突きつけるために、手段として、そうした人々に対して「葬送」を表象することは僕にはできないし、納得がいかないし、そういう過激さを追及するのであれば、それには賛同することが全くできないということです。

レヴィナスは、「汝殺す勿れ」の根拠を探求するなかで、人間の「顔」なかんずく「まなざし」にその根拠を見出しました。

ひとりひとりの代置することのできない顔、そしてひとみの輝き。
これは何をもってしても「抽象化」したり「物」として扱うことは不可能です。

であるとすれば、生きている人間を尊敬し、死んだ人間に対して哀悼の念をもったアプローチをとらない限り、どのような目的を掲げようとも実現することなど不可能だし、そうまでして実現したいとは思えない。

ならば、僕はよりそいながら、葬送される方でありたいとも思う。

キングは1963年4月にバーミングハムで行われた抗議デモの際、自らバーミングハム市警に逮捕され、拘置所の独居房に投獄されたことがある。その中で手記(Letter from a Birmingham Jail)を残していますが、憎悪のための過激主義を斥け、対話に基づく合意形成の愛のための過激主義……全然、過激主義じゃないんだけど……という自己規定について次のように言及しています。

すなわち……。

「“敵”の卑劣さや憎悪、人間蔑視に、自分まで染まってしまえば、自分が、戦っている悪と同じようなものになってしまう」(趣意)。

原子力は推進・反対に関わらない問題だってことを理解しないとはじまらない。

キングは“敵”をも“味方”にしてしまった……。
僕は現在の運動を「偽善」とまでは言い切りませんが、このことを失念して運動に専念していると大切なものを見落とすどころか、敵がそうやるのと等しく、生者に対しても死者に対しても、冒?してしまうことになるのだと思います。

さて3つ目の問題に関する部分ですが、近代日本の歩みとは、「自由」を制限する歩みであったことは否定しがたい事実です。

人間が生きていくなかで、例えば何を最大の価値に置くのかは議論の分かれるところですけども、自由はそのなかで一番とは言わなくとも大切な概念であることは言うまでもありません。

特に表現や内心といった人間精神の自由は人間にとってかけがえのないものです。

そして不幸にもそれをないがしろにしてきた、軽く見てきたのが日本の歴史です。
だからこそ、僕は、あらゆる理由をもってして外部からそれを制限するような試み……特に権力……には反対です。

しかし、この自由というものは大変ナイーヴなものです。そしてそこにつけ込まれ制限されてきたのが人間の自由の歴史です。

僕は「何をやってもいい」とは思う。しかし開き直って「何をやってもいい」と言い切ることはできません。

そしてその境界線を固定化することもでないから、それをたらしめていくしかないってことじゃないでしょうか。

カントは古いですが自律がない限り、それを表現することも、他者へ向けることも不可能です。

いずれにしても、そういう奇異なことをやると、ひとびとの信頼を得ることはできません。

過去の治安立法への経緯と歴史を過度に強調しようとは思いませんが、そこに官憲はつけ込んでくるというのは「お約束のパターン」。

そのことだけは忘れてはいけない。

あらゆる表現は規制されるべきでないと思うし、同時に石原的抑圧は問題外だと思う。ただ現実に人間を引き裂いてしまう手法も存在する。これは話しあってクリアしてくしかないか。ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」が僕に試されてるとも思う。

そして順番が逆になりましたが、2つ目の問題。

実施者はこの命を弔うセレモニーを「今まで参加したことのあるデモとは全く違う負の表現なため嫌悪感を抱く方も居たかもしれません」断りを入れておりますが、宗教を商売としてではなく、宗教は人間にとって不可欠なものであるとして、それを研究する人間としては、やはりここは引っかかります。

「死=負」と見るのはそもそも宗教を否定する生活世界の眼差しにすぎなかったのではないかという話しです。

死者への哀悼はいうまでもないし、死も生も両方を別々のカテゴリーとして見るドクサをうち破るのが世界宗教なのではないでしょうか。

オウム的に死をことさら美化・宣揚しようとは思いませんし、そこから現世を討つ(物理的に破壊する)ことは負に他なりませんから許容することはできません。

しかし、そうした人々の臆見をうち破るのが宗教ではなかっのか……という話しです。

誤解されるとやだけど承知言及するけど、生と死を分断する構造を利用して成立したのが原子力を始めとする現代文明ではないでしょうか。

それに対してオウム的反撃をしようとは思わない。だけど同じ言語で反撃を加えたとしても、それは生者も死者も「冒瀆」するものにほかなりません。

それを忘れないでほしい。

死=負と二元する発想は宗教や葬送儀礼を小馬鹿にしたようで、ホント、生死を分断するのは宗教じゃありませんよ……って話です。

……ということで、つらつらまとめようと書きましてまとまっておりませんが……怒っているか……、僕の考え方だけは今時点で残しておこうと思います。

2と3に関しては後日、信教の自由の歴史、生死学と宗教の葬送儀礼の角度から改めてアプローチし直しますのでお許しを。

また論旨破綻していると思いますが……、承知で残しておきます。

ただ、僕は、ひとびとが原子力放射能の問題に対してNOということを否定しようとか、このことで東京電力株式会社および政府の原子力の問題をスルーしようという訳ではありません。

くどいのですが、そうした問題に向き合うためには、彼ら以上に、真剣に智慧を絞ってやっていかないと、味方になるはずの人間まで敵にまわしてしまう「先鋭化」を招来してしまうんです。

赤軍とかはもう御免です。







⇒ ココログ版 反原発葬列デモに関しての違和感(1): Essais d'herméneutique



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