人が死んで喜ぶような人であってはならない。たとえ、それが人殺しであっても同じだと思う。





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みんなの広場 カダフィ大佐の死、喜ぶべきか
中学生 13 (東京都)

 私は、テレビでリビアカダフィ大佐が死んだことを知った。リビア国民の手によって殺されたそうだ。その時見た映像は彼がリビア国民に殴られ蹴られ、血だらけになった姿だった。私は彼のことをあまりよく知らない。しかし、ここまで国民に暴力を受けているのだから、悪い人なんだろうと思った。
 けれど、そのリビア国民を「良い人」とは思わなかった。その後、リビアの観光客がピースサインをしながら彼が死んだ場所で写真を撮っているという記事を新聞で読んで、私は絶句した。人が死ぬことを喜んでもいいのだろうか。確かに彼は人殺しだ。しかしそんなことをするのなら、リビアの国民も同じではないか。
 人が死んで喜ぶような人であってはならない。たとえ、それが人殺しであっても同じだと思う。カダフィ大佐の罪はとてつもなく大きい。だから、死を喜んでいいということにはならない。そう考えさせた彼の死だった。
    −−「みんなの広場 カダフィ大佐の死、喜ぶべきか」、『毎日新聞』2011年11月30日(水)付。

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twitterで少し言及したし、【覚え書】で紹介しておこうかと思ったのですが、やはりふつうに残してきます。普通って何よってツッコミはなしで、まあ、要するに少しコメンタリーを加筆して残しておくって事です。


13歳の中学生の正直な「違和感」なんだろうと思います。
しかし、そう綴られた「違和感」といいますか「わだかまり」は大切にした方がいい。

要するに「大佐の罪は大きいが、その死を喜ぶ人間の心への疑問」。

彼女の考えを甘いよって批判することは簡単なんです。

しかし……

「実はこういう世界情勢のからくりがあるからさァ、そう単純に判断できないんだよ」

……なんてネ、「物知り顔」の“評論家”風に「解説」してみせたところで彼女の「わだかまり」は解消しないと思う。

いろんな観点から、それは「甘い」とか「実は……」ってフレーズで切り出したとしても、彼女のいう「大佐の罪はとてつもなく大きい。だから、死を喜んでいいということにはならない」との言葉を跳ね返すことは不可能だろう。

死や不幸を悼む心は人間に内在する。
しかし、それと同じぐらい、死や不幸を喜ぶ心も人間自身に内在する。

何かによってそれは滅却することはできないから、それが内在することを自覚しながら、主(あるじ)としてコントロールしていく他ない。

だからこそ、素朴な「違和感」は大切にしたいし、だからこそ、「喜ぶ」のではなく「……いいということにはならない」って人間に成長していきたいと思う。

よく「他人の不幸は蜜の味」っていわれますし、その人間の心根を否定はしません。しかしそれだけが人間の総てでもないし、僕は、できるだけそういうものにあらがいたい。

13歳の中学生の素朴な「吐露」……。

これは、様々な「解説」やら「主張」やらが横行するなかで、「人間とは何か」……って原点に連れ戻してくれるような「魂」の「叫び」に聞こえるんですよねぇ。








⇒ ココログ版 人が死んで喜ぶような人であってはならない。たとえ、それが人殺しであっても同じだと思う。: Essais d'herméneutique


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