「知識人は、歴史や慣習によって押しつけられる系譜的役割を否認することを任務とする」訳ですから……



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 知識人は、歴史や慣習によって押しつけられる系譜的役割を否認することを任務とする。彼は自己が、<真理>とか<知>といった概念に対してすら、それらが(比喩的にしろ、字義的にしろ)高いところから<降りてくる>かぎり、あるいは、<始源>から表層へと<昇っていく>かぎり、従属しているとは見ないのである。真の理論は全体を示すことはせず、増幅するものである、とドゥルーズは言う。現象をそれらに対応する思想に還元する代わりに、理論は現象と経験とを実際に起こったことによって課せられる限界点から解放する。理論は経験と知を含まず、拡大もしないし、また処理された真理の形でそれらを送り渡すこともしない。理論は、知のおびる明白な不規則性と非連続性とを、したがって知が単一の中心的<ロゴス>を持っていないことを想定するが、それはさらに進んで、知が発生する分散の秩序を明瞭にするか、それを作り出すかする。
 ここでフーコードゥルーズは、ヴィーコや、マルクスエンゲルスや、ルカーチや、ファノンなどに、またチョムスキー、コルコ、バートランド・ラッセル、ウィリアム・A・ウィリアム、その他の人々のラディカルな政治的著作に見られるところの対立的認識論の流れに合流する。書くことは、たんにある思想を文字通り反復するためでなく、なにかをするために<言語を捉える>(prendre la parole)行為である。ふたたびフーコーを引用する−−

 もし〔権力の〕出発点を指示し、それらを否認し、それらのことを公的に語ることが戦いであるならば、それは、このことを意識する人が今までいなかったからだということではなくて、この命題について言語を捉え(prendre la parole)、体制の情報網に挑戦し、誰が何をなしたかを名指しで言い、的を示すこと、これらすべてが、権力の最初の方向転換を、権力に対する他の戦いのためになされる第一歩を作り出すことになるからである。……戦いの言述は、無意識的なるものに対立しはしない。それは秘かなるものに対立するのである。

 攻撃的とは言わなくとも積極的なエクリチュール感覚が、この引用文を支えている。というのは、<言語を捉える>(prendre la parole)は普通<話し始める>、つまり<発言する>を意味する。普通内意されたままにされていることをはっきりさせること、専門的な合意のために通常は述べられない、あるいは疑問とされないものを述べること、指示された時点で、また伝統によって決められたやり方で忠実に書くことを行うよりも、再び書き始めること、なかんずく、確立されている<真理>に対する礼儀正しい義務感からよりも発見の行為の中で、また発見の行為として書くことーーこれらが集合して知の生産へと導き、それらが、この私の著作が問題としている始めることの方法を要約するのである。
    −−エドワード・E・サイード(山形和美・小林昌夫訳)『始まりの現象』法政大学出版局、1992年、562ー563頁。

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3−4日の土日の「倫理学」のスクーリングでは、これまで以上に、はっきり言えば、割合と「踏み込んだ」内容と発言、換言すれば、やや「挑発的」とも思えるような構成でしたが、試験の最後に簡単に書いてもらったリアクションの部分の全てに目を通したところ……、

すべての受講生のみなさまが、

「刺激になった」ないしは「もう一度リセットしてみます」

……というような感じで、意図を理解してくださったようで、ひとまず安堵している氏家です。

倫理学者・和辻哲郎(1889−1960)は主著『倫理学』のなかで、「学が特に知識に関する場合でも、すでにできあがった知識を単に受け取って覚え込むのは学ぶことではない」と指摘しておりますし、終局としては「学ぶのは考え方を習得して自ら考え得るに至ること」がその目的になるわけですから、なるべく自分自身が無反省に身にまとっている「臆見」(ドクサ)を“撃つ”ことが必要なんだろうと思うわけですので、戦略的にも、そういう踏み込みをやってしまうわけですが、こちらも真剣であれば、うける側も真剣でありますので、思った以上に、投げたボールをがっちり受け取ってくれたのかな……などと思う次第です。

作業としての学習という狭義でみるならば、そのための仕込みや知識の認知は孤立人の観照のように錯覚してしまうフシはありますが、「学とは人と人との間の面授面受の関係」であることを踏まえるならば、まあ、そうならざるを得ませんし、

「知識人は、歴史や慣習によって押しつけられる系譜的役割を否認することを任務とする」訳ですから、やはり、大学で遂行される学問というものは、ある意味では、

“これまでの考えは正しかったのか?”「動執生疑」をおこさせ、もう一度、自分自身で発想を組み立て直す……これをスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak, 1942)ならば「unlearning(私たち自身の損失として私たちの特権を学びつつ解体すること)」という姿勢になりますが……ものになりますからね。

つまるところは、「秘かなるものに対立する」……この挑戦が大事かもしれませんネ、

さて、結局、二日間の授業は朝の9時から18時近くまでぶっ通しですが、それで終わるわけもなく、二日間とも、そのまま、「教室」を代えて(ぇ! 有志で「倫理学」の「第二陣」!!!

土曜日は今回履修された学生さん。

全ての講義がおわった日曜は、履修生数名と、先の秋期スクーリングで受講された学生さんとその友人。

まあ、私の場合、教室がどこであろうと、ぶっちゃけますので自由闊達なやりとり、模索や挑戦の語らいなど……有意義な時間を濃厚に過ごさせていただくことができましたので感謝です。

いや、しかし、明細をみているとどうも二日間で、日本酒×一升4合、麦酒×14杯、ハイボール×3杯、焼酎(泡盛)×3杯もいただいていたようで……、

ヘロヘロです。

しかしながら、「勝つ」必要はありませんけれども、「負けない挑戦」を継続することは何においても大切ですね。









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