吉野作造と大川周明:「私は吉野さんに恩を蒙つてゐるので、一度お会ひして御礼を云ひたかつた」








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 吉野博士が死んでからもう一年を過ぎた。大川博士が下獄してから間もなく二年にならうとしてゐる。……この二人の学者の間に、不思議なる因縁のつながりがあることは、あまり世間に知られてゐない。
 大川博士が法学博士の学位を授与されるとき最も努力したのは吉野博士であつた。始め大川博士が学位論文を東京法科大学に提出した際、教授会がこれに好意を持たなかつたことは事実である。その訳は、一体帝大といふところは官僚主義的学閥意識の強いところあつて、(近頃は少しは変つたやうだが)学位を与へるのにも履歴とか地位とかを重んずるので、大川氏のやうな浪人学者に学位を与へることを好まない風があつた。そんなわけで大川氏の論文は某教授の手許に永らく停滞するの巳(ママ)むを得ざるに至つた。これに対して吉野博士は大川氏に同情し、たとひ論文提出者が浪人であらうと官吏であらうと大学教授であらうと、いやしくも論文そのものに価値があれば、当然学位は与へねばならぬという正しい意味の自由主義に立ち、自分は審査委員の一人として、大いに奮闘し、到頭大川氏に法学博士の学位が授与される運びになつたのである。
 東京帝大法学部の学位に対する官僚的門戸閉鎖主義を打破したのは吉野博士であり、その最初の栄誉を獲た人は大川博士であつた。ところで面白いことは、この二人の間に少しの面識もなく、そして面識のないまゝで吉野博士は死んで行つたのである。しかし吉野博士は大川博士のために尽したことを誰にも語らなかつた。吉野博士の生前、私は博士と大川博士のことについて語つたことがあるが、学位問題については一言も云はなかつた。元来吉野博士といふ人は徹底した人道主義者であつて、どんな未知の人に対しても、自分が助けねばならぬと感じたら、良心の命ずるまゝにどこまでも尽力する人であつた。そして自分のしたことを誰にも吹聴しない人であつた。私は某あんな立派な人格者は滅多に生まれてくるものではないと信じてゐる。
 大川博士は吉野博士の人力をどこからか伝へ聞いて、大いに感謝の念を抱いた。吉野博士が死んでから、私は大川博士を市ヶ谷刑務所に訪ふてこれを報告すると、博士は憮然として「私は吉野さんに恩を蒙つてゐるので、一度お会ひして御礼を云ひたかつた」と寂しく語つた。この二人の博士は思想的立場を異にしながら、互いに尊敬を払ひ、一度も面会はしなくとも著書は絶えず交換してゐた。
    −−赤松克麿「吉野博士と大川博士」、『国民運動』一九三四年五月、三五頁。

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娘婿の赤松克麿(1894−1955)が岳父・吉野作造(1878−1933)と大川周明(1886−1957)の友誼を、吉野が亡くなった後に語ったのがうえの抜粋。

大川周明が東大で学位を取得する際、影になって助力したのが吉野作造ですが、吉野作造大川周明といえば、水と油のように思想的なものは相反する定位置。

しかしながら、吉野は立場をこえて、助力を惜しまなかった。

盟友・ 内ケ崎作三郎(1877−1947)は吉野のことを「無限の親切の人」と呼んだそうですが、その消息がうかがい知れるエピソードではないかと思います。

大川の他にも、天皇親政を説き、民本主義と激しく対峙した東大の同僚・上杉慎吉(1878−1929)との日常生活における睦まじい友誼も有名な話しです。

結局のところ、この吉野のような人間に向かい合う態度をどこまで取ることが出来るか……それが課題なんじゃないかと思う。

肩書きや役職、出自や文化、そして政治的な立場や考え方によって、

「こいつとは話しにならん」

「こいつは人間じゃない」

……人そのものと向き合う前に、そうした短絡的な判断をしていないかどうか。

確認しながら挑戦していかない限り、人間はたやすく「非・人間」を拡大再生産していってしまうと思うんですよね。

話をするまえから「こいつとは話しにならん」では、そりゃあ「話し」にはなりませんよ。

こちらから閉ざすような在り方は賢明に避けていくしか在りません。





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