現実の人間は、なんらかのこれまでの理想の『望ましい』人間よりもはるかに高い価値を示している






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三九〇 〔二三一〕(673)
 私の結論は以下のごとくである。すなわち、現実の人間は、なんらかのこれまでの理想の「望ましい」人間よりもはるかに高い価値を示しているということ。人間に関するすべての「願望」は不条理な危険な逸脱であり、これでもって或る特定種の人間がおのれの保存や成長の諸条件を法則として人類の頭上にかかげたかったものであるということ。そうした起源をもちながら支配的となるにいたったいずれの「願望」も、現今にいたるまで、人間の価値を、その力を、その未来の確実性を下落せしめてきたということ。人間の貧弱さ知性の狭隘さは、今日でもなお、人間が願望するときにもっともよくさらけだされるということ。価値を措定する人間の性能はこれまであまりにも低い発達しかとげていなかったので、たんに「望ましい」のではない事実上の人間の価値が是認されなかったということ。理想は、現今にいたるまで、もともと世界と人間を誹謗する力、実在性をおおう毒気、大いなる無への誘惑であったということ・・・
    −−ニーチェ(原佑訳)「権力への意志 上」、『ニーチェ全集』第12巻、ちくま学芸文庫、1993年、374頁。

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ううむ。

何といいますか、最近、政治的なスローガンだけが次々と喧噪のように襲ってくることに、極度の違和感があるんです。

もちろん、その主義主張が一考に値しないものが殆どなのですが、なかには、その真反対に完全な模範解答のようなポリティカルコレクトトークンの場合もあり、まさに乱戦という情況かなあ、と佇んでしまいます。

結局はそういう主義や主張、それからさまざまな価値観というものは、それを見本にして、現実を開拓していく「べき」事柄なのでしょう。

しかし、現実の流通情況をふりかえると、それを「武器」にして、言葉を奪われた現実に生きている人々を毀損する暴力として機能しているような感があり、結局のところ「何が望ましいのか?」と問い返したくなってしまいます。

現状よりも「そうあったほうがいい」、「こうあったほうがいい」ということは理解できるし、私の生きている社会に問題が山積することは理解しています。

ただ、まじめに生きている人間の言葉に耳を傾けず「そうあったほうがいい」、「こうあったほうがいい」……いや、それよりも「こうしたらいいんだ、ボケ」みたいになってくるとそれはやはり怖ろしいことなんじゃないのかな。

理念や主義や願望に関しては、そもそも人間が作り出したもの。
だとすれば、その人間に対する敬意を失った議論はそれがいかに高尚なものであったとしても人間を毀損してしまう。

だとすれば「現実の人間は、なんらかのこれまでの理想の『望ましい』人間よりもはるかに高い価値を示している」というこの一文は重く受け止めなければならないはずなんだが・・・








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