「答え」だけをとにかく早急に求める、そして主張する傾向の空恐ろしさ
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人生論者というのは、本来モラリストのことをいうのだろう。モンテーニュだとか、ラ・ロシュフコーだとか、山本常朝だとかいった連中のことを指すのだろう。つまり、道徳家ではなく、人生を傍観している連中だ。したがって、かれらは、われわれにむかって、ぜったいに、ああしろだとか、こうしろだとか、指図がましいことはいわない。いう資格のないことを骨身に徹して知っているのだ。かれらは、ただ、あるがままの人生について、低い声でボソボソと語りつづける。そうだ。人生論者としての適正をしらべるばあいには、かれらの声を問題にするのもたしかにわるい方法ではないね。ホンモノは決して大声をはりあげて演説したりしない。しようともおもってもできないのだ。
わたしもまた、その昔、人生に希望をもっていた時代には、モンテーニュやラ・ロシュフコーを好んで読んだものだ。そうして、わたしは、しだいに人生に絶望するようになった。おのれの力の限界をみつめながら、精一杯の仕事をしているときには、誰だって絶望するだろう。余技として人生論をかきつづけている文学者や哲学者や科学者も、専門の人生論者になれば、きっと絶望するだろう。絶望にたえながら生きていくのが人生である。
−−花田清輝「人生論流行の意味」、粉川哲夫編『花田清輝評論集』岩波文庫、1993年、185−186頁。
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このところ、根拠を欠いたような断定論の洪水に……
「ちょっと待て!」
……とツッコミを入れたくなることがよくある。
様々な問題に関して、検討すべき材料や資料はそろっている場合があっても、「そうだ」とも「違う」とも判断できないことや即答には少し時間がかかることっていうのは、世の中には多いはずだと思う。
*だからといって考えることを拒否して、物事を「アイマイ」にすませようとする日本的精神風土を容認するものではありませんので念のため。
「そうだ」とか「違う」という判断を下すまえの、逡巡だとか熟慮といった大切な手続きが本来はあるはずでしょう。
そして検討を繰り返しても、「そうだ」とも「違う」とも「言い切れない」、たとえば、「わからない」としか答えようのないことがらも存在する。
しかし、そうした大切な手続きや省察・佇みとかをいっさい省いて、
「答え」
だけをとにかく早急に求める、そして主張する傾向に、何か、空恐ろしいものを感じ取ってしまう。
答え先行の軽挙妄動はこうした時代だからこそ慎むべきなんだろうと思うのだけど、いかがでしょうか。
不正や不義に目をつぶるということではありませんよ。
しかし、慎重にならなければならない時ってあるとは思うんだけどねぇ。
角度をかえれば、どのような問題に対しても「あなたはどう思うんですか?」という詰問の雰囲気も濃厚ですよ。
そりゃあある程度の問題については「こう考える」と言明できるものもありますが、すべてについて「わかる」わけではありません。
しかし、そこで「わからない」と答えると、「お前は敵か!」みたいなリアクションもされますしねぇ。
結局、イエスかノーかのマークシートで敵か味方で判断する傾向とか、相反する模範解答の横溢は、最終的には豊饒な未来を閉ざす軽挙妄動だと思う。
世の中、分からないことだらけですよ。
だから、それを誠実に知ろうと思う。
だとすれば、簡単に、「そうだ」とか「違う」だとか反応できないことってあるんです。何か正義のレースに擬した「総・言及病」は、かえってそのものから遠く離れていってしまう気がするんだよなあ。
どうなってンだろ。