「現実の具体的な歴史を、あなたたちは、あなたたちの頭のなかにしかない歴史発展の大法則に置き換えているのだ」と言ってやりましたよ
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マルクス主義者やネオ=マルクス主義者が歴史を知らないと言って私を非難したとき、私は彼らにこう答えたのです−−「歴史を知らないのは、あるいは歴史から眼をそむけているのはあなたたちだ」、とね。「現実の具体的な歴史を、あなたたちは、あなたたちの頭のなかにしかない歴史発展の大法則に置き換えているのだ」と言ってやりましたよ。歴史に対する私の敬意、歴史に対する私の愛着、それは、歴史の現実の歩みが示す予見不可能性に精神のどんな構成物も取って代わることができないという、歴史が私に与えてくれる感覚に由来しています。偶然性のなかにある出来事、これは何によっても置き換えることはできないものだと私は思います。構造論的分析は、この偶然性というやつと、こういう言い方を許してもらえるならば、「うまくやっていく」のでなければなりません。
−−クロード・レヴィ=ストロース、ディディエ・エリボン(竹内信夫訳)『遠近の回想』みすず書房,1992年。
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サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905−1980)との論争で有名な通り、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss,1908−2009)は「歴史」(※)を批判したから「反・歴史主義」者と罵られましたが、これはいささか早計でしょう。
※西欧近代社会が「歴史ある人類」と自己規定するためには、「未開」民族を歴史の主体としての人間から排除する他者意識が必要だったこと、そして「未開」民族が「歴史ある人類」へと進化するためには、後者の出会いと祝福が必要不可欠という筋書き、それをレヴィ=ストロースはしなやかに暴き出した。それを歴史の否定と捉えるのは「早計」という話し。だから筋書きに精錬されるまえの出来事を「純粋歴史」と呼ぶ。
さて……
レヴィ=ストロースが批判した歴史とは、西欧近代に生まれた特権的な歴史意識。
本来、異質な出来事から形成される不連続な連続としての歴史を、年代という特定のコードを使って単一の全体に「トゥギャりました!」っていうのものが公定(=校訂の)「歴史」となる。
それを批判したわけです。
そしてこれは、西欧近代だけの問題ではありません。
そうした歴史意識は西欧との出会いによって、私の住む日本でもごたぶんにもれず、都合のいい「単一の全体」としてまとめ上げられているわけですから。
「日本国民」の展開としての歴史……などといった“創られた”「連続性」は、年代という特殊なコードを用いなければ生成することはできないし、そのことはとりもなおさず「近代」というネイションから、排除される在り方を対鏡として創られうる歴史であることを踏まえておかないと、単なるフィクションにしか過ぎないものを過剰に需要してしまうことになってしまう。
レヴィ=ストロースが退けるのは、いいように生成された歴史の連続性によって主体を確立する歴史意識。
そしてそれがたとえ、○○の解放だとか、抵抗だの……と看板を掲げた歴史であったとしても、それは所詮、欺瞞の思考に属するものにすぎない。
進歩や解放、民族や血、そして必然や対他といった概念軸によって連続性が生成されていく欺瞞の指向性。そしてその思考は、「連続」としてではなく、現実に起こった個々の出来事を表す「歴史」(レヴィ=ストロースはこれを『純粋歴史』と呼ぶ)から眼を逸らしていくことになってしまう。
様々なコードによって連続性として精錬された「歴史」には、偶然的な出来事や事物の「語り」や「息吹き」、そしてベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin,1892−1940)のいう「アウラ」が全くない。
過去から現在へという連続へと整頓し直すことは、取りも直さず「顔」の消滅を必然する(T_T)