覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『ツナミの小形而上学』=ジャン=ピエール・デュピュイ著」、『毎日新聞』2012年3月11日(日)付。

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今週の本棚:池澤夏樹・評 『ツナミの小形而上学』=ジャン=ピエール・デュピュイ著


 (岩波書店・1995円)

 ◇「思い描けない」という原理的な困難
 一年前に起こった大きな破壊についてたくさんの本が書かれた。恐怖の体験の報告があり、社会的なシステムの欠陥を分析する本があり、原発を巡る論争があった。

 『ツナミの小形而上(けいじじょう)学』は哲学である。自然科学と並んで存在の意味をもっぱら思弁で探るのが形而上学だが、この本はそのような西洋思想史の伝統の延長上にある。

 ここに言うツナミは直接には二〇〇四年のスマトラ沖地震のものであり、背後にはヨーロッパの知識人に衝撃を与えた一七五五年のリスボン地震津波がある。その上に二〇一一年の日本の津波が重なることを著者は「日本語版への序文」で述べる。

 哲学の価値は普遍性にある。重力の法則が宇宙ぜんたいに通用するように、哲学の真理は人間ぜんたいに応用されるべきものだ。だからここではツナミの問題が、アウシュビッツや、ヒロシマナガサキ9・11、更に温暖化などと重ねて論じられる。

 キリスト教には、神は全能なのになぜこの世界には悪があるか、という大きな問いがある(災害は犯罪と並んで悪と見なされる)。一七五五年のリスボン津波はそういう意味でショックだった。それを受けて本書はライプニッツ、ルソー、ヴォルテールの思想を辿(たど)りなおす。

 しかし今の状況は彼らでは賄えない。「私たちが道徳とか倫理とか呼ぶものはどれも、終わったばかりの前世紀に姿を現した、巨大な悪の重みに十分耐えることができない」とデュピュイは言う。(我々が科学技術という自分たちに由来する悪を持ってしまったから、とぼくは考える。)

 未来に不安がある。破滅が予想される。核の危機や温暖化や資源不足や国際紛争は見えているのに、なぜ回避できないのか? 我々について言えば、原発は危険に決まっていて、放射性廃棄物は蓄積される一方なのになぜ核燃料サイクルは止められないのか? たびたび津波に襲われてきたのになぜ人は海岸に住むのか?

 これについてデュピュイは「たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない」と言う。なぜなら「私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから」。

 この論法の延長上にアウシュビッツの有能な官吏だったアイヒマンが登場する。彼は自分は組織の歯車の一つに過ぎなかったと弁明した。裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、彼の真の罪は「考えの不足」にあると言った。彼もまた「思い描け」なかったのだ。

 この先はぼくの応用問題である。福島第一原子力発電所を設計し建造し運転していた人たちの立場をアイヒマンに重ねることは不穏当だろうか? とんでもない災厄を引き起こしながらそこに一片の悪意もなかったという点で彼らは似ている。

 悪意はない。憎しみはない。敵の姿を見ないままに殺せる巡航ミサイルを発射する「ニンテンドー戦争」の兵士たちに果たして戦意があると言えるか? あるいは核ミサイルの?

 テロリストの方がまだ人間的と言ってみようか。しかし今のテロリストは無差別である。9・11の実行者は浅沼稲次郎を殺した山口二矢(おとや)とは違うのだ。彼らが高層ビルから落ちて行く偶然の「被災者」の無念を「思い描いて」いたとは思えない。(ここで彼らを「犠牲者」と呼ばないのは、「犠牲=捧(ささ)げられたもの=聖性=神」という回路さえ彼らが奪われていたからだ。これについては本書の中のホロコーストショアーを巡る議論が興味深い)

 思い描けないものを思い描かせる寓話をデュピュイが紹介している。一時はハンナ・アーレントの夫だった哲学者ギュンター・アンダースの創作−−世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。誰が死んだのかと問う群衆に彼は「あなたたちだ」と言う。その破局はいつ起こったのかという問いには「明日だ」と答える。

 未来を現在に取り込むことによって、その未来が現実化しない方向へ世界を向ける。ノアのところへ一人の大工が来て、方舟(はこぶね)を造るのを手伝う、と言う。

 だが、もう「明日」を迎えてしまった我々はどうすればいいのか? 更なる「明日」に備えることはできるのか? 「明後日」はどうなる? 西欧の形而上学と我々の無常観の違いが明らかになる事例がある。

 一九五八年、ギュンター・アンダースは広島と長崎を訪れた。「その惨劇について、彼らは皆、まるで地震、あるいはツナミ、あるいは隕石(いんせき)の落下であったかのように語っている」と彼は言った。

 我々日本人はあまりに天災に慣れている。リスボン津波は唐突だったが台風は毎年のように来る。だから我々はジョン・ダワーが言うように「敗北」をさえ「抱きしめ」たのではなかったか。

 論旨は未整理で、哲学史への言及も多く、決して読みやすい本ではない。翻訳もいささか生硬。強引に読んだこの書評にはぼくの私見が混じっている。それでもこれは苦労して読むに値する本である。(嶋崎正樹訳)
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『ツナミの小形而上学』=ジャン=ピエール・デュピュイ著」、『毎日新聞』2012年3月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120311ddm015070060000c.html



おまけ。

ジャン=ピエール・デュピュイ「悪意なき殺人者と憎悪なき被害者の住む楽園――ヒロシマチェルノブイリ、フクシマ――」。2011年6月30日、東京大学駒場キャンパスにおける講演記録。


pdf→ http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/Dupuy_japanese_2011.pdf









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