種類を問わずあらゆる言論にたいして制限も留保もなく与えられる全面的かつ無限定な表現の自由は、知性にとっての絶対的な欲求である





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言論の自由
 言論の自由と結社の自由はたいてい一括して言及される。それは誤りである。自然な集まりはべつであるが、結社は魂の欲求ではなく実務生活の便法にすぎない。
 これとは逆に、種類を問わずあらゆる言論にたいして制限も留保もなく与えられる全面的かつ無限定な表現の自由は、知性にとっての絶対的な欲求である。したがってそれは魂の欲求である。知性が居心地の悪い思いをしているとき、魂のすべてが病んでしまう。この欲求に呼応する充足の性質と限界は、魂のさまざまな能力の構造じたいのなかに刻みこまれている。長方形の長編を無際限に延長しても短辺は限定されたままとどまるように、同一の事柄が限定的であると同時に無限定的であることは可能だからである。
 人間において知性は三様に行使されうる。第一に、知性は技術的問題にはたらく。すなわちすでに措定された目標にいたる手段を探索する。第二に、ある方向性を選ぶにあたって意志が熟考するとき、手掛かりとなる光を与える。第三に、他の諸能力とは分断されて純粋に理論的な思弁のなかで単独ではたらき、このさい暫定的にせよ実践的行動への配慮はすべて排除される。
 健全な魂において知性はかわるがわるこの三様の在りで行使され、そのつど自由の度合もことなる。第一の機能における知性は奉仕者である。第二の機能においては破壊者である。それゆえ、完徳の域にない人間の場合がそうであるように、悪の側にくみするのをつねとする魂の部分に、知性が悪を擁護する論拠を供給しはじめるや、これを沈黙させねばならない。しかし知性が単独で分離されてはたらくときは、主権者たる自由を享受すべきである。さもなくば、人間はなにか本質的なものを欠くことになる。
 健全な社会についても同様である。したがって出版の領域においては、絶対的自由が担保されることが望ましい。ただしその場合、出版される著作がいかなる度合にせよ著者を拘束せず、読者にたいするいかなる忠告も含まないことが了解されねばならない。そこでは悪しき主義主張を擁護する論拠であっても、全貌をあますところなく開陳してかまわない。これらの論拠は公表の良いことであり健全なことである。だれにせよ自分のもっとも糾弾する論拠に経緯を示すのはいっこうにかまわない。そのさい、この種の著作のめざすところが人生の諸問題に対する著者の立場の確定ではなく、各問題にかかわる所与(データ)の完全で正確な列挙への予備研究的な貢献であることが周知されねばならない。著作の出版が著者の身にいかなる種類のものにせよ危険を招かぬよう、法で未然に防ぐべきだろう。
 逆に、言論と呼ばれるもの−−実態としては振る舞い−−に影響をおよぼす意図のある出版物は、行為を構成するのであるから行為とおなじ制限に服するべきである。いいかえるなら、それらの著作はいかなる人間にも不当な損害を与えるべきではないし、なによりも人間に対する永遠の義務が法によって厳粛に認知された以上、それらを明示的にせよ暗示的にせよ否定するような要素を含んではならない。
 行動の埒外にある領域と行動の一部をなす領域、これらふたつの領域の区別を法律用語により紙上で公式化することは不可能である。そうはいってもこの区別は文句なく明解である。この二領域の分離は、その意欲さえ充分に強ければ、事実として確定するのはむずかしくあるまい。
    −−シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと (上)』岩波文庫、2010年、37−39頁。

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時々、思い出したかのように読み直したくなるのがシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909−1943)。

もちろん、内容が難解だから、何度も格闘しないと「読む」ことができないので、挑戦の連続というのがその実情ですが、上に引用した「言論の自由」という日本語で10数頁たらずの文章の冒頭には、目を見張るものがあります。

明晰な論理であるにもかかわらず単なる論証知に終わっていない。
権利論に終始するわけでなく、「人間」という深い次元から省察されており、この文章を、今話題の橋下市長さんだとか石原都知事さんに是非読んで欲しいと思い、少々抜き書きした次第です。

ヴェイユは、まず、人間精神の自由にとって不可欠ともいえる言論の自由と結社の自由を取り上げ、この混同を慎重に退けながら、「魂の欲求」というまなざしからその筋道をたてなおします。
※だからといって結社の自由は下らないものであるということではありませんよ、念のため。組織化される集団は、どのようなものであれ、必然的に人間を抑圧してしまうことへの懸念ではありますが。

そして言論の自由を次のように定義します。

「あらゆる言論にたいして制限も留保もなく与えられる全面的かつ無限定な表現の自由は、知性にとっての絶対的な欲求である。したがってそれは魂の欲求である」。

そう、言論の自由とは知性に端を欲するということ。その知性とはどこに由来するのかと言えば、「魂」に源がある。

言論の自由が抑圧されるということは、魂そのものが抑圧されるということを理解しておくことが必要だろう。

「同一の事柄が限定的であると同時に無限定的であることは可能だからである」。

では、その言論の自由はどのように構想されるべきか。後半部分にその青写真が具体的!に開陳されています。。

知性の遂行と機能を手がかりにして、その発露においては、そもそも「絶対的自由が担保されることが望ましい」。

しかし、それを実現させる上でのアポリアをどのようにさけていくべきか。
こちらも具体的に展開されています。

言明はデータであるべきとすれば、伝聞の憶測であってはならないし、「為にする批判」であってもならない。

そして、振る舞いに影響を及ぼす場合は、「制限に服するべき」と釘を刺すけれども、同時にその制限は、現実的には、「法律用語により紙上で公式化することは不可能」ともいう。

絶対的「自由」の地平と人間としての「矜持」をどのように並立させるのか……これはヴォルテール(Voltaire,1694−1778)の言う「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という理想へ向けたひとつのビジョンですね。




いやー、繰り返しになりますが、橋下市長さんだとか、石原都知事さんに読んでもらいたい。



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