私のことを薄情者だとか「お前は人間じゃねぇ!!!」と罵声りつけてくださっても結構です



市井の職場に勤める方のお父さんが亡くなりました。
その都合で……忌引きで休みになりますので、休まれるところのフォロー……、大学の出勤日とのかねあいもあり、ひさしぶりに2週間連続仕事ちゅうという状況です。

お父さんが亡くなれたことには、哀悼の意を抱くのですが、それと同時に、「……ということは振り替えて出勤しなきゃいけないじゃん!」という不謹慎な感情もわいてくるんです。

はい、私のことを薄情者だとか「お前は人間じゃねぇ!!!」と罵声りつけてくださっても結構です。

しかし、不思議なことに、私の場合は、相反する感情が出てきてしまうのです。

上の事例は、同じ会社に勤める仲間の親族の「死」についての問題でしたが、これは親族の場合でも同じ事を経験したことがあります。

いまから3年前の5月、通信教育部のスクーリング担当で、札幌へ出張したのですが、土日が授業になりますので、前日の金曜日から現地に入ります。

前の日がほぼ仕事で徹夜だったので、札幌に入るや呑みにいき、そうそうと布団へダイブしてしまったのですが、翌朝、起きると、実家から電話が何度も携帯電話に入っていた模様。折り返すと、

「ばあちゃんが死んだ!」

……とのことにて絶句。

同じように、まず、孫の私を深い愛情をもって育ててくれた祖母に対する哀悼の意を抱くのですが、それと同時に、「まじかよ!」とも思ってしまうんですね。

要するに、土曜の朝、さあ、これから授業をしないと!というわけなんですが、「うわ、こんなときに亡くなったっていわれても、まじで、どうするべ」という現実的な反応もしてしまう(実家は四国ですから)。

結果としては、「友引」という「ありがたい」日本的システムのおかげで、葬儀は月曜となっていたので、正直「助かった」という話です。

はい、私のことを薄情者だとか「お前は人間じゃねぇ!!!」と罵声りつけてくださっても結構です。

そして、もっとつっこめば、月曜日に葬儀にかけつけて、近親者として参列するわけですが、ここに至っても、故人への哀悼の念はもちろんあるのですが、正座をしていて、「足しびれた〜」とか……そういうのもあるわけです。

そういう経験をするなかで、人間とはこれまた複雑怪奇な「矛盾に満ちた存在」なんだなという現実を突きつけられたように思います。


思うに、(これも典型的で恐縮ですが)小乗式灰身滅智の修行なり、瞑想などを繰り返しても、人間のこの相反する感情を100%滅却するのは不可能ではあるまいか……ということ。

もちろん、現実には、そのあたりをきちんと生きている人間は沢山いると思います。
しかし凡夫かつ罪人のような僕が経験した事例だけで恐縮ですが、極善だけの人間とか、極悪だけの人間というのは現実には恐らく存在しないではないでしょうか。

もちろん、後者のような否定的な情念は退けられてしかるべきなのでしょうが、否定すると言うよりも、どう向き合い、それをコントロールしていくべきなのか考えた方が、むしろ価値的なのではないか、そう考えた次第です。

人間は、他者の死に対して、身震いするほど悲しみ、深く哀悼するいきものであります。
しかし、それと同じように他者の死に対して、「ふ〜ん」とか「まじ困った!」というおすすめできない感情をもいだくいきものでもあります。

だとすれば、おそらく「人間とは何か」という問題は、人間をいたずらに過大評価するのでもなく、過小評価するのでもない出発点としての認識が必要なのかも知れません。

過信と不信の間をゆれつづける「忖度」という態度ゆえに、「裏切られた」!というふうになってしまう。

だとすれば、人間といういきものは、そういう矛盾の当体であるという認識から、人間をもういちど見つめ直し、現実的な是正や取り組みというものを組み立てていくべきなのじゃないかと……とね。

ともあれ、連勤はきついっすorz








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