懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである






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懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。

    −−三木清『語られざる哲学』講談社学術文庫、1977年、15頁。

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よく、学生さんから「せんせいは、疑い深いひとですねー」と言われますが、「疑う」ことは悪いものなのでしょうか。

こういう指摘を頂くにつれ、日本ではとにかく、「疑うこと」は「良くない」というイメージが定着しているのじゃないの! って印象を抱きます。

何も、疑うために疑っている訳ではありません(苦笑。

ある意味では確実性を探究するために疑っているのであり、「本当のそれはどうなんだろう?」っていう好奇心から疑うわけで、その意味では、学問を探究する人間は、既存の前提に対して大いに疑問を持ち、「常識」と称されるものの薄皮の一枚、一枚を剥いでいくことは必要だと思います。

しかし、注意がけた方がいいことも存在します。
うえに、三木清の文章の一節を紹介しましたが、「第一にその懐疑が徹底していないとき」、「第二にその懐疑の動機が正しくないとき」の二つがそれに当たるかと思います。

そもそも本気で探究しようなどとは思っていない人間には徹底的な探究など不可能でしょう。

そして、人間はどうして探究するのでしょうか。
それはまさに自分自身が心から納得したいから「なぜ?」と疑問を抱き、探究を遂行していきます。その意味では、そうした本源的な「知への愛」が立ち上がっていないとき、探究は本末転倒になってしまうかと思います。

このあたりは、気に掛けておくべきなのではないかと思います。

それから余談ですが、例えばtwitterfacebookをはじめとするSNSなんかで、本来探究であったはずの「やりとり」が不毛な結果に陥ることがよくありますが、この場合もほとんどがここに起因するのではないかと思います。本気で探究しようと思っていないから、言葉に真摯になれず、ただやりこめる議論に惑溺してしまう。だから、言及を曲解したり、悪い事例だと、捏造/歪曲してまで勝他することに専念する。こういうのは避けたいものではあります。

追伸:5月21日(月曜)の朝は、金環日食でしたが、寝不足の二日酔いながらも、300円の日食観賞用メガネ越しに、ふらふらしながら、一眼レフが電池切れにて、コンデジで撮影を試みましたが、無惨な結果(涙

準備しておくものですね。







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