絶対性がなくなると宗教は自己崩壊してしまう。しかし同時に自分と異なる信仰を持つ人もそう思っている

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 さて、今日では、冷戦体制が崩壊してしまったので、イデオロギー対立による全面戦争の危機は逼迫したリアリティを持たなくなってしまったが、互いに不寛容になった諸宗教間の対立が、世界各地で目立つようになっている。こうした状況を考えると、たとえヒックが導き出す結論に異議があるにせよ、寛容を訴える彼の宗教的多元論の主張そのものは、決して無視できるものではない。
 いずれにせよ、常に人間は信仰や思想で意見を異にする者がいるとき、少数派の相手を常に排除してきた。二一世紀の我々は過去の歴史から学ぶだけでなく、宗教や文化、思想に関して、互いに寛容の精神を身につける必要があるだろう。そうした意味で、宗教間対話の取り組みは、現代世界の必然的な課題である。この課題はキリスト教にだけ限られた問題ではない。世界の諸宗教は、異なる宗教諸伝統の中にいかに自己を位置づけるかという問いを、追求する必要がある。自己の信仰と全く異なる他の諸宗教を理解し、これと対話を進めることは、その宗教にとっての自己理解のためにも必要不可欠である。

 そもそも宗教は、それを信ずる人にとっては最高の価値を意味している。したがって信仰者にとっては自分の信ずる宗教が最も善いものである。その場合の?最も善い?=最高・絶対性とは、二番、三番があっての一番ではなく、端的に?それしかない?という独占的な一番である。他と比べてそれなりによいものだとか、それに対する信仰はほどほどでよかろうというものではない。それは当然であり、それで良い。そうした絶対性がなくなると宗教は自己崩壊してしまう。しかし同時に自分と異なる信仰を持つ人もそう思っていることを知らねばならない。他者の存在を無視し、その存在を認めないのは独善である。そうではなく、異なる他の諸宗教の存在をそれぞれの固有性において真に尊重することが必要なのではないだろうか。宗教多元主義の考え方は、そうした宗教間対話を神学的・哲学的に基礎づける視座を提示してくれている。
    −−拙論、「明治キリスト教宗教多元主義の諸問題 −−事例としてのユニテリアン派の活動から(一)」、『東洋哲学研究所紀要』第22号、東洋哲学研究所、2006年、20−21頁。

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twitterの連投のまとめですが、少し記録として残しておきます。

「AとBという宗教を比べたとき、AはBより優れていますよね?」という議論に関しての問題です。


宗教者とその教義は排他的絶対性の主張がなければ成立しませんから、私はそれを否定はしません。ただ、何かを否定して自身の安心立命を図ろうとするのであればそれは問題ではないかと考えます。これはネトウヨの承認欲求と構造は同じでしょう。

私自身は諸宗教を研鑽するようになってから、根本的には、教義上の高低浅深の議論が結局は躓きの石になっていることを学んだように思います。確かに教義的な強弱から暴力へ連動する人間も存在します。しかし非暴力へ挺身する人間も存在します。その意味で単純な類型論……例えば「キリスト教一神教だから排他的、アニミズムに見られるような東洋の諸宗教はすべてを肯定する」……には懐疑的です、

もちろん、教義論争が不毛だと一蹴にしようとは思いません。

しかし、それで相手の全人性を図ることは不可能ですよね。その意味では「宗教の真正さを試すべき試金石はどこにあるのか」といえば、人間を人間として尊重することだと思います。これはもちろん、理想論かも知れませんが。



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 レッシングの『賢者ナータン Nathan der Weise』の指環の物語は、宗教の究極的な最奥の真理がもはや外面的にではなく内面的にのみ立証されることを現している。歴史的事実による経験的な証明であれ、抽象的な論拠にもとづく論理的・形而上学的証明であれ、所詮すべての証明は不十分である。なぜならば結局において、本来の宗教はそれが作用する限りにおいてのみ存在し、そしてその本質は心情と行為においてのみ実現されるからである。

 すべての宗教の真正さを試すべき試金石はこの一点に存する。

    −−カッシーラー中野好之訳)『啓蒙主義の哲学 上』ちくま学芸文庫、2003年、274−275頁。

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くどいけど、カテゴリーで人間を扱うようになってしまうと終わりなんだろうね。










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