否定的自由のもたらす破壊の凶暴



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 否定的自由にとっては、あらゆる特殊化と客観的規定を絶滅することからこそ自由の自己意識が生じる。そこで、否定的な自由が欲すると思っているものはそれ自身すでに抽象的な表象でしかありえず、これの現実化は破壊の凶暴でしかありえないのである。
    −−へーゲル(藤野渉ほか訳)「法哲学」、岩崎武雄編『世界の名著 ヘーゲル中央公論社、1978年。

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少し、仕事の都合でへーゲル再読していたので少しだけ覚え書。

デカルトに端を発する「考える我」に根拠をおくものの見方は、個人を尊重しようという個人主義の考えをもたらすことになるが、展開の過程で、いわば、孤人主義とでもいうべき質的な変貌を遂げたことは疑いようのない事実。

問いが「なぜ」よりも「いかに」にウェイトがおかれてゆく中で、アトム的な人間観が誕生する。そこでは、本来、代換不可能である個々人の主体を中心にという考え方が、実体的な概念として受容され、その結果、動的なものから静的なものとして人間をまなざすようになってしまう。

人間が実体として扱われるということは何を意味するのか。本来、個人を個人として扱おうとする考え方が、単なる空虚な自己主張へと転落することを意味する。

おそらくこうした時代の流れに抵抗したのがカントやへーゲルなのだろう。
とりわけへーゲルは多感な時期にフランス革命からナポレオンの出現という「世界史」を経験し、動向に注視した。

本来「人間のために」というフランス革命が、革命後、一転して暴力的傾向を帯びてくる状況の原因を、悪しき個人主義、悪しき自由主義に見抜くこととなる。

へーゲルはフランス革命の負の側面を「否定的自由」の原理が跋扈した時代として把握したのである。

悪しき個人主義とは否定的な自由のことである。それは真の自由ではない。真の自由とはへーゲルにおいては、社会と歴史を自己として生きる個人のものである。

何かと切り離されて自存する自由や個とは、静的であるがゆえに、恣意的に振る舞ってしまう。だからこそ関係性に絶えず注視したのであろう。もちろん、後期へーゲルは、その関係構造とその具体的構築物へ傾斜してしまうことは事実であり、残念な展開といってもよかろうが、デカルトに端を発する近代哲学の終結といわれるそのとらえ方は、自由の劣化への抵抗と受け止めることも可能である。

このへーゲルのとらえ方は、今の時代においても今なお色あせるものではないと思う。

さて……。
千葉の大学で担当する倫理学の講座、先の水曜の授業で、とりあえず倫理学の観点を紹介することが終了。最終的なまとめを経て、次から具体的な課題へ進む予定。

ともあれ、象牙の塔の学者と評されがちなのがいわゆる「哲学者」と呼ばれる人々でしょうが、ヘーゲルもそうですが、実際は、毎日、長時間、新聞を熟読するに費やしたともいわれております。現実のなかにこそ理性的なものがあるとしたヘーゲルの思索は、単なる概念の上の遊戯ではなく、「否定的自由」の議論に関しても、時代との格闘のなかで思索が遂行された点は失念してはなりませんね。まあ、そういうことを話した訳ですが、次の準備もしませんと・・・いけませんね(涙









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