「総体的」態度が必要になるのは、生活における互いに衝突するさまざまの関心を行動において統合することが必要であるから





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 哲学を思考と関係づけることは、哲学を知識から区別するのに役立つ。知識、根拠づけられた知識は科学である。それは、合理的に解決され、整理され、処理された事物を表示する。他方、思考は未来に関連している。それは不安定状態によって引き起こされ、動揺の克服を目指すのである。哲学は、既知のことがわれわれに何を要求するか−−それはどんな反応態度を迫るか−−を思考することである。それは可能なことについての観念であって、完成した事実の記録ではないのである。それゆえ、哲学は、すべての思考と同じように、仮説的である。それは、なすべきこと−−試みるべきこと−−を指示する。その価値は、解決を与えること(それは行動によってのみ達成することができる)にではなく、困難を明らかにし、それらを処理するための方法を示すことにある、おそらく哲学とは自覚的になった思考−−経験の中での自己の位置や機能や価値を一般法則化している思考−−だといってよいであろう。
 もっとはっきりと言えば、「総体的」態度が必要になるのは、生活における互いに衝突するさまざまの関心を行動において統合することが必要であるからである。いろいろな関心があまりにも表面的であって、容易に互いに他に移り変わったり、それらが互いに衝突するようになるほどには組織されていないような場合には、哲学の必要は感じられないのである。しかし、科学的関心が、たとえば、宗教的関心と衝突したり、経済的関心が科学的あるいは美学的関心と衝突したりする場合、あるいは秩序への保守的な関心が自由への進歩的な関心と対立するとき、あるいは、制度主義が個人の利益と衝突するときには、分立を終結し、経験の整合性とか連続性を回復させるようなあるいっそう包括的な観点の発見への刺激が存在するのである。しばしば、これらの衝突を、一個人が独力で解決することがある。諸目標の争いの範囲が限られており、人は自分自身の大まかな環境への順応をやり遂げるのである。そのような手製の哲学は本物であり、しばしば妥当なものである。しかし、それらは、哲学大系とはならない。哲学大系が生ずるのは、いろいろな行為の理想の食い違った要求が全体としての社会に影響し、再調整の必要が一般的であるときなのである。
    −−ディーイ(松野安男訳)『民主主義と教育 (下)』岩波文庫、1975年、197−199頁。

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担当の倫理学の科目(一般教養)は、履修指定年次の制限がないので、複数年の学生さんが履修してくださるのですが、履修者の2/3ちかくの方が、ちょうど教育実習でしたので公休といいますか、少し抜けて、これまで3週間ほど授業をしてきたのですが、本日より復帰。

過去3回分のざっくりとした振り返りと、シラバス通りの授業進行というジレンマに悩まれつつ、今回は変則的な組み立てになりましたが、なんとか完遂!

履修者の皆様ありがとうございました。

やることはやりつつ(汗、それでも、割合と今日は自由にやりとりをする形式にしてみました。ちょうど、初等教育に特化した大学なので、先輩たちの実習秘話といいますか、ダイレクトな感慨を後輩たちも耳にした方が、来年以降有意義になるだろうということで、報告会?のようなかたちで、報告と応答という形をとりましたが、これがなかなか素晴らしかったです(自分は何もやっていないという手前味噌ですがネ

ここでは詳しくは言及しませんが、ともあれ、理想と現実を突きつけられ、みんな、少し大人になったといいますか……。

後輩たちにも実践的なアドバイスもありがとうございました。

さて……、
よく変則的な内容で組んだり、現実世界での事象を倫理学は対象として「議論」することができるので、まあ、ありがたいわけですが、そういう学生自身の経験や、「先生は、これ、どう考えるですかー?」っていうやりとりをする中で、たしかに科目としては、ある程度、「基礎的な考え方を教える」という「知識教育」はやらないといけないわけですが、それを展開できる時間をつくれるかどうかが、やはり勝負なのかな、とこのところ実感します。




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