「神父様、あっしには、これがありまさあ。だから、大丈夫で……」


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ルターの住んでいたドイツのザクセン近郊でも、免罪符は大々的に販売されていた。
 ちょうどその折りの話である。町の司祭、大学教授として赴任していたルターは、日中、街の路上でひとりの酔っぱらいを見かけた。かなり酔って、道端に横たわっている。そのような生活を送っていては、魂の救いには至りえない。そう思ったルターは、男に声をかけた。
 「昼間から酔っぱらっていないで、真面目に働きなさい。そんなことでは、神さまの御心にかなわないよ。自分が死んだ後のことを考えなさい」。
 すると、男は酔眼を半分見開き、丸めた一枚の札を掲げながら、こう答えた。
 「神父様、あっしには、これがありまさあ。だから、大丈夫で……」。
 男が手に握っていたのは、免罪符である。これを見た若きルターは、大きな衝撃を受けた。聖書の教えを学生たちに講義するだけではだめだ。この男の心にも届くように語る努力をしなければ。これが、ルターが自らの新しい使命に目覚めた瞬間であった。
    −−徳善義和『マルティン・ルター −−ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年、8−9頁。

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「民衆の心と聖書の教えとを結ぶ、もっとも身近で、唯一の接点であった」のが「改悛の秘跡」。

中世において、キリスト教ラテン語により独自のキリスト教世界を構築していく。当時の教会には、今のような参列者が腰掛ける椅子などない。意味を理解することのできないラテン語の説教をただ立ち見で伺うというスタイルだ。

そうした乖離にあって、民衆の心を具体的につなげるのが(そこに救いだの何だろのがあるのでしょうが)、民衆の言語である各国語でおこなわれる「改悛の秘跡」である。民衆は時分の犯した罪を個別に神父に「告白」し、赦免をうけると同時に贖いの行を課せられる。

天国にいけるのかどうかという民衆の宗教的不安は、こういう儀礼によって解消されていったよい。しかし、この手続きだけでは不安を解消できない時代が訪れる。懺悔の際、神父から課せられる「行いによる贖い」があるが、これを果たし得ないまま新だろう、どうなるのか。

「教会は民衆の不安に応えきれなくたっていた」。

「民衆のこのような不安に応えたのが聖職者による償いの身代わりであった。そこからさらに制度として案出されたのが、いわゆる免罪符(贖宥)の制度である。これは当初、時と所を限定して発せられるものであった。ところが、利殖に走る教会は、やがてこれを金銭と引き替えに……」

……っていう経緯は高等学校の世界史でも習うところでしょう。

先に言及しますが、私自身は「カトリック、オワタ」などとも思いませんし、それと戦ったルターは「英雄」などと「あげる」ことはいたしません。

日本の歴史教科書は基本的に「勝利史観」で時代を積み重ねるから、なにか先達が不祥事を興し、それに挑戦するようなムーブメントがあった場合、そちらを「よりただしいもの」と表記しがちだから、これは、かなり歪曲された構造に過ぎないし、現在の宗教生活を顧みても、カトリックが劣った「旧教」で、プロテスタントがよりすばらしい「新教」と断定できるものでもないからです。
※だからノンクリなのにもかかわらず、「カトリックですか……」とよく誰何されますが、横に置きましょう。

さて、戻ります。
ひとびとの不安に応える工夫に関しては、僕は全否定したくはない。
しかし、それが本来の目的を離れて、手段としてオートマチックに機能してしまうことには自覚であるべきだろうというだけです。

そしてこれは過去のキリスト教だけの問題ではないし、仏教やら何やらも例外ではない。戒名の高低浅深が「ご供養」の「額」に影響されるのは羞恥、もとい周知のことだから、「うぇーい、キリスト教オワタ」というのは天ツバw

心から「ご供養」やら「お布施」をして……すべてにおいて、それと救いが必ずしもバーターというわけではありませんが……そのひとの心に「安心立命」がもたらされ、それによって「生かされていく」専従者という図式を全否定するつもりもない。

しかし、金銭の多寡によって、この人間は、たとえば、篤信であるだのとか、そして出費する方も、「とりあえず、こんだけ、ぶっこんどいたら、まあ、ええねん」みたいなシステマティックな、まさに「利殖のゲーム」になってしまうとオワタだろう、ということ。

先に言及したとおり、システムとしては、互恵的関係だから、それが金銭を媒介にすることは必然であるから、それ「爆発しろ!」っていっても始まらない。

だとすれば、「そう、いっても始まらない」相互の関係がない限り、宗教の不幸は永続化していく。

ただ、それだけですよね。

お互いに「食い物」にする関係は、いずれにしても不幸を導くというだけ。

そんでもって、コレは宗教だけの話でもない。





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