知慮(フロネーシス)というものに関して
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知慮(フロネーシス)というものに関しては、こんなふうにして、つまり、いったいいかなるひとびとをわれわれは「知慮あるひと」と読んでいるかということを考えることによって、その何たるかの把握が可能になるであろう。「知慮あるひと」(フロニモス)の特徴と考えられているところは、「自分にとってのいいことがら・ためになることがらに関して立派な仕方で思量(プーレウエスタイ)しうる」ということにある。それも決して部分的な仕方で、たとえば、どのようなものごとが健康とか体力とかのためにいいかといったことについてではなく、およそ全般的な仕方で、どのようなものごとが「よく生きる」(エウ・ゼーン)ということのためにいいか、についてなのである。その証拠に、もしひとびとが何らか或るすぐれた目的(ただし技術の領域に属するものを覗いて)を達成するため立派に勘考するような場合、われわれは彼らを目して、そうした或ることがらに関しての知慮あるひと(フロニモス)となすのである。だから、全般的な仕方で知慮あるひとというのは、やはり全般的な意味において思量にたけたひと(プーレウティコス)のことでなくてはならぬ。
−−アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学』岩波文庫、1971年、223−224頁。
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昨日の試験にて前期の担当科目が全て終了しました。
履修された学生さんたちもこの科目が最後だったようで、今日から長い夏休みがはじまるとの由。
高等学校までの学習と大学での学問が違うように、夏休みの過ごし方も変わってくると思います。何が変わるかといえば、やはりそれを自分で組み立てて過ごすということが大きいのではないかと思います。
寝るもよし、遊ぶもよし、学問をふかめるもよし。
ただ、大事なことは、……そしてこれは休みの過ごし方だけではありませんが……ぼっーとしているとぼっーと時間だけが過ぎてしまうということ。
ここだけは留意しつつ、価値ある一日一日となりますよう心よりお祈り申し上げます。
また、今日までありがとうございました!