覚え書:「今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。



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今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著
 (中央公論美術出版・3万9900円、3万4650円)

 ◇暮しを立てる為の旅行案内が不朽の名著に
 小林秀雄がはじめて奈良へ行ったのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』(一九一九)に刺戟(しげき)されてだろうというのは、三浦雅士の推定である。おもしろくて説得力に富む新説だ。しかしニーチェがイタリアへゆくとき、ブルクハルトの『チチェローネ』(一八五五)をたずさえていたにちがいないというのは、もっと確実な話だろう。ニーチェバーゼル大学で彼の同僚であり、講義を聴き、自分の著書を毎回、熱烈で恭しい尊敬の挨拶(あいさつ)を添えて送り、そして歴史学者のほうはいつも礼儀正しくてしかし冷淡だった。
 ブルクハルトは、ベルリン大学からランケの後任として招かれたほどの碩学(せきがく)で(ただしバーゼルへの愛着を理由にして断ったけれど)、彼の『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)は名著のなかの名著である。これはそういう偉大な学究となる人が若年のころ、学制改革のため一時職を失ったとき、生計のためにものしたガイドブック(副題は「イタリア美術作品享受の案内」)で、「建築篇」「彫刻篇」、「絵画篇」の三部から成る(第二部は未訳)。その種の本でこれほど高い位置を占め、長く売れつづけているものはほかになかろう。実用書が不朽の名作となり、大古典が現在もなお有用であるのはなぜか。
 第一に親切な書き方で、実際に役に立つ。たとえばレオナルドがミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂に描いた「最後の晩餐(ばんさん)」について「最良の光は正午頃か」と言い添える。さらにラファエロがユリウス二世とレオ十世のために制作したモニュメンタルな仕事では「ヴァティカンの部屋」の絵画を推奨し、「手引き書が述べていることや作品を見れば自(おの)ずからわかることなどには言及しない」と断った上でこう記す。
 ラファエロがこの仕事のために招聘(しょうへい)されたとき、この部屋部屋はすでに存在し、部分的には(ペルジーノやソードマなどにより)壁画も描かれていた。部屋の設計は全く模範的なものではなく不規則で(例えば署名の間の穹窿(きゅうりゅう)など)照明も恵まれていない。大抵人々は午後見に行くが午前もよく、背後の鎧(よろい)戸が開いていると本質的に違った印象を与えられる。
 題の「チチェローネ」とはもともとローマの哲人キケロのことだが、彼の雄弁のせいで「案内」という意味が派生した。しかしここでわれわれが出会うのは案内人よりもむしろ誘惑者である。読者は彼の説明に魅了されて、いつかの日の午前「ヴァティカンの部屋」を見にゆこうと決意する。それほど彼の文章は巧みで、話術は洗練を極めている。これが第二の特質である。
 第三に、彼が芸術を愛すること深く、美に対して鋭敏だったから。「絵画篇」第五章の冒頭で、ブルクハルトは挑戦的な口調で言う。
 十五世紀最初の数十年間に西洋絵画に新しい精神が訪れた。西洋絵画は教会への奉仕を続けながらも、それからは純粋な教会の課題とは無関係な原理を展開した。芸術作品はまず教会が要求する以上のものを与える。宗教的関係以外にいまや現実世界の模像を与える。芸術家は物の外的現象の研究と描写に没頭し、人間形態からも空間的環境からも、すべての現れ方を次第にかち取って行く(中略)。外面的現実をすべてのディテールまで追求せず、高度の詩的真実が損なわれない限り追求するその拍子(タクト)は、芸術はそもそもの初めから天の恵みとしてもっていた。
 そして第四に、彼の史観はもともとこの本を書くのに向いていた。その好例は『世界史的考察』(ちくま学芸文庫)で偉人について論じた箇所。ナポレオンの出現のせいか、偉人論は十九世紀の好話題だったが、最も有名なのはヘーゲルの「世界史的個人」だろう。彼は、アレクサンダー大王カエサルの名誉欲や征服欲について云々(うんぬん)するのは、世界精神の事業遂行者という彼らの使命を知らないやからだと軽侮した。ランケが政治史的英雄を重んじたことは言うまでもない。一方ブルクハルトは、コロンブスの偉業を絶讃したあとで、「アメリカはたとえコロンブスが揺り籠の中で死んだとしても、遅からず発見されたであろう」、しかしもしラファエロが幼児期に死んでいたら「キリスト変容図」は描かれなかったと付け加える。発見者の場合、偉大さは発見された対象にあるので、発見した当人にあるのではないが、詩人や芸術家たちが偉大なのは彼ら自身のせいである。こうして文化史は単なる出来事の生起をたどる一般史よりも上位に立つ。『チチェローネ』にはナショナリズムの世紀、英雄崇拝の時代における異端の書という局面がある。(瀧内槇雄訳)
    −−「今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120902ddm015070048000c.html



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