覚え書:「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『死について』=辻井喬・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。




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今週の本棚:高樹のぶ子・評 『死について』=辻井喬・著
 (思潮社・2940円)

 ◇先立った人へ、負い目に満ちた詩の重さ
 詩集の書評は初めてのこと、しかも死がテーマとあれば、作者にとっての死、すなわちこれまで生きてきた短くはない人生すべての認識が言葉になった一冊に対して、評者に出来ることと言えば、その認識に対抗する、あるいは押し潰されて流れ出す、もう一つの詩でしかあり得ないだろう。私小説的にではなく、詩的アプローチでしか扱えないと気付いたことは発見であり、評する立場としてははなからの挫折でもあった。

 死はもとより、生者の認識だ。体験者によって検証が出来ない認識。それゆえ自分の死を語ることは、選別された「詩の言葉」の発光以外の方法では不可能になる。その死は発光体ゆえに、誰も検証はできない。検証できないが確かにそこに在る言葉。読者は手を翳(かざ)しながら、想像力をフル稼働させて受感するしかないのが死というわけだ。

 けれど自分の死への予感を通して、すでに死んだ人間の死を語るなら、そこに検証のまなざしが生まれてくる。過去の死者と未体験の自分の死を重ね合わせて、迫り来る死を実感する方法だ。そのことで死は具体的な意味を持つ。

 この詩集を読むあいだ、作者が男性であることを、常に強く意識させられた。「男の死」とはこういうものかとも考えた。

 作者は病を得て長い病院生活を送り、手術の体験を通して死を予感する。けれどそこで予感されるのは、「ぎりぎりのところで戦地に征(い)かずに済」み、「空襲、疎開、敗戦、復興闘争、反米運動と、いろいろな体験を潜り抜けてきた」「戦死できずに生き残ってしまった」自分の死なのである。詩人にとっての死は、身体に訪れる現象以上に、歴史的社会的な側面からのまなざしによって追求されていく「未知のテーマ」でもある。

 自身の身体の衰亡も含めて、死をこのような広い時空に乗せて思考するのは、詩人が男性であるからだ。女性は肉体的な実感をまず手前に置いてしか死を想像できない。本詩集に「男性の死」を直感したのは、私が女性であるからに違いない。別の表現をすれば、女性は自分の(あるいは身近な人間の)死を想像し語ることは出来るが、歴史的社会的な死を、詩の言葉に置き換えることが極めて難しいのだとも言える。

 この違いを突き詰めて行くと、実はあらゆる局面に行き着く。死の意味として大義を求める男性に対して、女性は新たな生命の循環のひとつとして死を捉えるだろう。男性が死を前にして意義や美を求めるのに対して、女性は生命が次世代に続けばその継続だけで満足する。さらに言えば、「男性の死」は単発的に独立しているのに対して「女性の死」は盛亡の現象でしかない。この違いをとことん極めて行けば、死の意味を常に噛(か)みしめて生きた武人世界と、美というものが人の死によって断絶するとは考えなかった公家文化の女性性にまで、辿(たど)り着くかも知れない。

 作者はあとがきで、「この詩集はどう生きるかではなく、美しく死ねないという枠のなかで死について考える作品集なのだ」と書く。

 誠実に、美しく死にたいと願う作者の、先に死んだ人間への負い目に満ちた言葉の重さ。

 けれど生の数ほど死は在るのだと考える女性の評者は、あえて詩の(ような)言葉を感想としてここに置くしかない。人間は考え悩み生死の意味を求める「葦(あし)」ではあるけれど、「葦」に死は無く繁茂は続くのだと。それが希望であるか絶望であるかは別にして。    −−「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『死について』=辻井喬・著」、『毎日新聞』2012年10月21日(日)付。

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