自分自身、「判断ができない」“真空地帯”ってヤツが、生活世界の中には存在するなあ
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政治に情熱は必要だが距離をおくことが必要である。政治はきわめて厳粛〔重大〕な行動であるからむしろ生一本の情熱ではだめであるという paradox がある。 a sence of humour があるということは、観念に人間が使われず、人間が観念を使うために必要である。
−−『丸山先生・政治学』東京大学出版会教材部、1961年、17頁。
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twitterまとめで恐縮ですがとりあえず載せておきます。
ちょっと眠気いれど、そんでたぶん、あとでブログにまとめると思いますが、少しだけ。自分自身、「判断ができない」“真空地帯”ってヤツが、生活世界の中には存在するなあという話です。
まとまっていないし呑んでいるしすいません(←っていつもやねんというツッコミはナシで
市井の職場が小売りの販売職なので、まあ、対面コミュニケーションの世界です。細かくは言及できませんが、今日、少し大クレームに発展した不手際がありました。端的にいうと、規定通りの対応に対してお客様が「おい、てめぇ」ってよくある誤解のひとつです。一次対応者は状況説明したものの謝罪はせず。これが激怒へ。
はっきり言ってしまえば、まず「謝る」っていうのが「案件クローズ」の第一初動です。しかし対応者…ベテランなのですが…所作の説明はしたのですが、「申し訳ありませんでした」の一言が最初に出てこなかった。そこを突かれました。そんで機関銃のように暴言を浴びせられましたので立ちつくすのみという事態へ。まあ、氷りついてしまったという訳です。
※しかし、謝るっていうのはものすごく生命力を浪費するアレなんです。
企業社会の論理で言えば、そこで「我慢」して「申し訳ありませんでした」と言えばすんだのでしょうが、対応者は二の句をつなぐことができず、固まってしまった。そこで小さな掛け違いが大きな問題へと「炎上」という寸法です。二次対応は後日、上席者対応へ移管されました。
論理的な整合性としては、対応者の説明責任で“済む”事案でありました。しかし、自身の所作を“否定”されたと感じたお客様は、「それはともかく……」謝れよって話です。
ここで、対応者に対して、「おまえ、“仮象”にすぎない企業論理なんだから“我慢して頭さげろ”」というのもたやすい。同時に、「あなたは、“仮象”にすぎない企業論理に対して、魂の立場から“NO”をつきつけた。頭をさげる必要はない」というのも否定できない。
しかしまあ、どちらも「仮象」な訳ですけれどもネ
頭を下げた方が賢明なのか。うまく仕事をする上ではイエスだと思う。しかし論理的整合性と自身の魂に忠実であろうすれば、下げないのがイエスなのでしょう(その最悪の場合には職を失うというリスクも随伴する)。私自身は、「こうしろ」とは言い切ることができなかった(ガキだから。どちらもイエスでありノーなんです。
前者に準拠した方が、生活を遂行するという意義では「賢い」生き方であると思う。しかし、自身に忠実であろうとすると齟齬をきたす。その意義では、それは生-権力の構造に「籠絡」された生き方だから「NO!」と言うべきともいえる。しかしそれはストレートに生きる糧を失わせてしまうことにもなりかねないし、魂をゆがめてしまうことにもなる。
そうすると、「ごめんなさい」といってしまった方がはやいというのは理解できるけれども、それに問題があるから抵抗せよというのも理解できるけれども、どうすればいいのかと頭を抱えてしまう。対応者に対して私は上席者として「次は『申し訳ございません』って、お願いしますよ」と示唆すると思う。しかしその先の振る舞いも否定できない。
その所作を批判したり称揚したりすることはたやすい。しかし、生活世界においては、イエスともノーといえない「真空地帯」は存在するなあと思った。いろいろな議論が世の中には存在する。そうしたほうがいいというのはわかっていると思っていることも多々ある。しかし選択できない場合もある。
その言葉を失う地平において、どのように振る舞っていくのか。「おまえな、そうなっているからやれよ」っていうのもナンセンスで説得力がない。と、同時に、その含み置きを斟酌せずに「それは籠絡からの解放だから、がんがん攻めたほうがいい」と無責任にいうこともできない。
人間世界にはこういう局面が多いと思う。そしてその忸怩たる地平に立ちつくそうとするからオレはダメやろうだとも思う。
以上。