智を愛すること、すなわち真の哲学の姿



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 哲学は英語でフィロソフィーと言う。ソフィーは古代ギリシャ語のソピア、ラテン語のソフィアに由来して「智」を意味し、ギリシャ語のフィロスは「愛する」とか「求める」という意味なので、哲学は「愛智」の学と言い換えることができる。今回の講義は、視聴者が愛智の生き生きとした姿を見る大きなチャンスになっただろう。
 哲学者同士で、難しい術語を用いて議論を展開するのは、確かに学問的には重要だが、それでは愛智の素晴らしさは広まらない。そうではなく、優れた哲学者が学生の議論を通じて哲学を展開させていく、姿を目の当たりにすることで、議論や討論を通じて智に到達することの素晴らしさや魅力がわかり、智を愛すること、すなわち真の哲学の姿が伝わったのである。
 サンデルも語っていたが、哲学というものは、我々が常識的に当たり前だと思っていることの自明性を揺るがす。しかし、懐疑主義に陥ることなく、省察や議論を重ねていけば、結果として、より深い考え方に到達することを可能にする。学問の原点に立ち返り、このような学問を発展させることこそが、学問改革につながっていくのではないだろうか。
    −−小林正弥『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』平凡社新書、2010年、27−28頁。

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昨日の哲学の授業にてなんとか古代ギリシア、すなわちソクラテスからプラトンアリストテレスに至るまでの流れを概観することができました。

ホワイトヘッドの言を引くまでもなく西洋における哲学の基本的なところは、ソクラテスによって始まり、プラトンアリストテレスによって開花する二つの発想にすべてが存在するといっても過言ではありませんので、この辺りを丁寧に説明させていただきました。

しかし、興味深いの古代ギリシアの哲学世界においては難解なジャーゴンや術語によって、そのやりとりを遂行していたのではなく、アカデメイアにせよリュケイオンにせよ「優れた哲学者が学生の議論を通じて哲学を展開させていく、姿を目の当たりにすることで、議論や討論を通じて智に到達することの素晴らしさや魅力がわかり、智を愛すること、すなわち真の哲学の姿が伝わったのである」という点は、哲学という学問を担当するうえでは、忘れてはいけないポイントではなかろうかと思います。

そう心がけたいものであります。

さて、授業終了後、勉強会のなかまと軽く呑むはずが、がっつり呑んでしまいました。

まあ、たまにはそういう席での哲学談義というのも大事な訳ですのでイタシカタありません。