絶望工場日記(1)


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  労働者の根こぎ
 完全に、たえまなく、金銭に縛れている社会階層がある。賃金労働者である。なかでも、出来高払いの賃金体系が導入されて以来、小銭(スー)単位の勘定にたえず注意をむけざるをえない労働者がそうだ。根こぎの病はこの階層において先鋭化された。わが国の労働者はそうはいってもフォード氏の労働者のように移民ではない、とベルナノスは書いた。ところが、われらが時代の主たる社会的困難は、わが国の労働者もまたある意味の移民だという事実にもとづく。地理的にはおなじ場所にとどまるとはいえ、精神的には根こぎにされ、追放され、いわばお情けで、労働に供される肉体という名目であらためて認知されるにすぎない。失業はいうまでもなく二乗の根こぎである。労働者は、工場にも、自分の住まいにも、彼らの味方と称する党や組合にも、娯楽の場にも、真の憩いをみいだせない。たとえ知的文化を吸収しようとしても、そこにも憩いはみいだせない。
    −−シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと(上)』岩波文庫、2010年、67頁。

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12月から短期のアルバイトで、パン工場のライン作業に従事しております。その雑感を少しtwitterに書いたもののまとめですが・・・

さて、絶望工場も2週目に突入。昨日はまる一日、バナナの皮を剥いていた(洋菓子ライン)。切り口が付けられたバナナがベルトコンベアで送られてくる。臨時職工5人でむきむきする訳ですが、剥いたバナナの上下をそろえて常勤のバイトのおばちゃんが斬る。そのスピードについていけなかった。

ちょうど今日は大学生のバイト君(某体育会部員で、部と会社が提携していて、オフの季節に派遣しているようでしたが)と組んで仕事した。自分もそうだけど、生活がかかっている人間は時給880円でも、ちゃっこらちゃっこら皮を剥いていたけど、そうでないと、眠気でカクンカクンしたりするなあ、と。

まあ、それは天ツバであって(苦笑、自分も大学時代に工場系ライン・バイトで(マネキンの貸し出しセンター)、レンタル先から返却されたマネキンを磨くというのをやっていたけど、これも生活苦ではなく、ちょとした銭稼ぎで(日払なので)やってたけど、たしかにカクンカクンしていたなあ、と。

しかし、今日の熟練のバイトのおばちゃん(バナナをカットする方)にはやっぱり愕いた。自分も含めてそうだけど、やっぱり、そういう黙々と「作業をする」ということをどこかで「蔑視」していたなあという偏見は否定できない。しかし、そういう熟練の寡黙さって案外大切なんじゃないかと思ったりした。

そりゃあ、もちろん、ラクにお金は稼ぎたいとは正直には思う。しかし、家計に不足があるから工場でバイトするようになったけど、今更ながら「お金を稼ぐ」という意義をもう一度確認しているような気がしている。そしてできれば月30万でいいから、ふつーに収入を得たい。
※、どうでもいいけど、四国電力株式配当が、今季はなしでツライ。

ヴェイユのように、魂をすり減らすことはたぶん、自分にはできないと思うし、自分がそれをやってしまうと欺瞞だろうと思う。かといって、親の財産に安住するとか、ずるいことをするは趣味でもない。ほんとうに、等身大の収入で等身大の生活をしていきたいなあと思うのは夢想なのかなあ。

まあ、体中が重い鉛のようになって、研究する時間も実際には確保しがたいのは事実だ。ただ、躰を動かして、且つ、神経をとぎすまさなければならない、この臨時職工っていう作業は、いろんな意味で、もう一度、自分自身を確認する作業になっているとは思う。

さきの大学生ではないけど、へんな話かもしれなけれども、案外、若い衆だと、女子高生がいちばん、まじめに「はい、はい」っていって元気に活躍してるんだよね。

例えば、知的な産業だけが、えらいのよ「エッヘン」とか思うのは一種の錯覚だと思うよ、ほんとうに。もちろん、ひとにより不得意とか技能による差異は歴然として存在すると思う。しかし、それは認識の地平というそれにしかすぎない。いや、だから文革みたいに下放しろって訳でもないんだけど。

……ってことで、今日の絶望工場日記は以上の通りw 次は金曜日なので、また、楽しませてもらいますん。というか、そうでも考えないとやっていけないという自分がいるし、現場で作業をやりながら、「やっていけない」つうのが違うという自分もいるわけでね。ほんと、怒糞野郎だと思う。






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