研究ノート:朝鮮人が来るなら来てみろ(和辻哲郎)、関東大震災下での知識人たちの反応から見えてくる人種主義の原像





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酒井 …… 今回、『思想』の関東大震災の特集号を読んで、学ぶところが実に多かった。人文科学系の人は、ほとんど朝鮮人襲撃の話をしています。ということは、ほとんどの人がその風評を聞いて憂慮していたということだと思います。朝鮮人の襲撃は東京の火災から二日ぐらい経ってから拡がってきたようです。ただ野上豊一郎は、震災の直後に、すでに宇都宮でその話を聞いたと言っていますから、すごい勢いで風評が拡がった。和辻哲郎も、この風評を信じてしまったことを正直に書いています。和辻は、この風評にのせられて「朝鮮人が来るなら来てみろ」と準備したと書いている。しかし風評にのせられて行動してしまったということについての自責の念が彼にはなかった。これはいくつかの意味で象徴的です。関東大震災で起こった朝鮮人虐殺は、日本の人種主義の原点の一つです。これ以前に日本に人種主義がなかったとは思いませんが、その後の日本の人種主義の展開を集約的に表している事件でしょう。和辻の朝鮮人に対する敵意は、後の中国人蔑視、さらには戦争中に表明されることになる彼の反ユダヤ主義の先鞭となっている。彼は植民地主義に反対していますが、それは民族と民族が混交することに対する嫌悪なのですね。朝鮮半島を併合することによって、内地と朝鮮が労働市場としてはひと続きになってくる。その結果として、朝鮮からの労働者と内地の住民が共存しなければならなくなるわけですが、このような異民族の混在を和辻は原理的に憎悪している。後に彼が戦争中に仕上げた『倫理学』(上・中・下、岩波書店、一九三七−四九年)の持つ側面がすでにこの段階で現れているし、戦後日本で彼が一番人気のある哲学者になる基盤がここにはある、という感じがしました。
 『思想』関東大震災特集号の執筆者たちは朝鮮人襲撃に関して、情報の受容と拡散についての分析をしているけれど、私はそこで一つのコンテクストが抜けているように思いました。つまり、三・一一ならぬ三・一(日本統治下における三・一独立運動)があったのが震災の四年前です。当時の人にとって当たり前の前提だったかもしれませんが、それがあったために、反植民地暴動が起こるかもしれないという恐怖心が一気に朝鮮人に向かっている。これはその後に何度か起こる日本帝国の中での暴動と、それに対する予防的な暴力の問題と関わると思います。日本軍部が戦争末期に沖縄市民を大量に殺しているのと同じような反応です。
 植民地主義は、まず、植民地で支配される植民地被支配者の問題です。しかし、植民地主義は、宗主国の住民にも深い影を落とします。「鮮人襲撃」の風評はその典型的な表れでしょう。植民地暴動が起こるだろうから、その前に彼らをつぶしてやろうという暴力の先取りの反応。これをどのように分析している人がいるかなと思ったのですが、『思想』関東大震災特集号にはいなかった。関東大震災の被害が東京や横浜という都市部を中心に起こったのに対し、東日本大震災が、過疎地域を含む主として沿岸地域で起こったことが、少なくとも現在にいたるまで、今度の震災では少数者虐殺が起こるような混乱が報告されていない最大の理由でしょうか。
 もう一つ、特集の関連で興味深かったのは、翌年の『思想』一九二四年一月号に石原謙が書いている「震災後の日本に帰りて」という小文です。石原は震災発生の時、アメリカにいたのですが、関東大震災に対してアメリカが人道的な援助を行って、それに非常に打たれたという話です。しかし、アメリカが震災で日本を人道支援した一九二三年の翌年に、合州国では日本人移民を排除する移民法ができます。つまり、人道的な援助が行われるチャンネルと、政治の中で人種主義的な国際政策ができるチャンネルは、別のものだということです。今回の震災でも、善意に満ちた国際協力の輪が拡がりましたが、これが日本のなかにある反中国意識の、あるいは、たとえば、中国の反日感情の抑制に役立つかどうかは、また、別の問題でしょう。今回も、そういったリアル・ポリティクスの枠の中で、全部がコントロールされていたと思います。
    −−「座談会 二一世紀の知とは何か 酒井直樹 坂元ひろ子、小林傳司 港千尋 司会=吉見俊哉」、『思想』編集部編『「思想」の軌跡 1921−2011』岩波書店、2012年、9-10頁。

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『思想』編集部編『「思想」の軌跡 1921−2011』岩波書店、読み始めるが、冒頭の座談会(「二一世紀の知とは何か」 酒井直樹 坂元ひろ子、小林傳司 港千尋 司会=吉見俊哉」)が興味深いので、「研究ノート」として少しご紹介しておきます。1921年の創刊ですから、刊行から2年後、関東大震災が起こります。

『「思想」の軌跡1921−2011』の冒頭に掲載されている座談会では、参加者たちの、この特集号に対するコメンタリーから始まります。

酒井直樹さんが、「人文科学系の人は、ほとんど朝鮮人襲撃」の話をしていることに注目、「ほとんどの人がその風評を聞いて憂慮」とその特徴を指摘しております。ここが非常に興味深いです。

和辻哲郎も例外に洩れず、「朝鮮人が来るなら来てみろ」と準備したと書いている。

しかし、関東大震災下での、カウンターとどさくさ紛れとしての朝鮮人社会主義者に対する「虐殺」は、吉野作造の事例を引くまでもなく、まさに「風評」に過ぎない。吉野は、流言飛語を信じた民衆も責任から逃れないと指摘していることは有名ですし(「朝鮮人虐殺事件について」、『中央公論』1923年12月)、ほとんど根拠のないデマと官憲による動員によって、無辜のひとびとが「虐殺」されたは、震災後、早い段階で分かってきている。


しかし「この風評にのせられて『朝鮮人が来るなら来てみろ』と準備した」と書いた和辻哲郎には、「風評にのせられて行動してしまったということについての自責の念が彼にはなかった」という。

それは何か。「関東大震災で起こった朝鮮人虐殺は、日本の人種主義の原点の一つ」ということに他ならない。

関東大震災以前に人種主義が皆無ではありませんが(人類館事件を想起せよ)、「和辻の朝鮮人に対する敵意は、後の中国人蔑視、さらには戦争中に表明されることになる彼の反ユダヤ主義の先鞭」であり、「その後の日本の人種主義の展開を集約的に表している事件」といえるのではないかというのは正鵠を得ているのではないかと思います。


『思想』特集号の当時の執筆者たちは、朝鮮人襲撃に関する情報の受容と拡散についての分析をしています。しかしながら(当時の人には当たり前だったかもしれないですが)「三・一(日本統治下における三・一独立運動)」の視座が抜け落ちている。これは恐れから、予防的な暴力を正当化する展開の先駆けとなっていく。

酒井さんの議論を受け坂元さん曰く「真偽を確かめるまでもなく流言を信じて『抵抗の衝動』から自ら木刀をもって自衛の見張りに加わった体験を記していることです。『自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え返らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂』だったというからには、彼にとって朝鮮人は同胞でなかった」。

もちろん、和辻哲郎の限界は主著『倫理学』にも見え隠れする。しかし、「戦後日本で彼が一番人気のある哲学者」であることを想起するならば、これは決して、和辻個人を攻めれば終わりという話でもないということでもないかと思います。和辻も反省しなかったように、私も反省していないと思う。

非常に考えさせられる指摘であると思います。

そして震災から、10年と待たずに満州事変です。

蛇足ですが、吉野作造の偉大さがよくわかる対照性です。

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 更に進んで、我々は自らの態度を深く反省して見るの必要を感ずる。我々は平素朝鮮人を弟分だといふ。お互いに相助けて東洋の文化開発の為めに尽さうではないかといふ。然るに一朝の流言に惑ふて無害の弟分に浴せるに暴虐なる民族的憎悪を以てするは、言語道断の一大恥辱ではないか、併し乍ら顧ればこれ皆在来の教育の罪だ。此所にも考察を要する問題が沢山あるが、これらは他日の論究にゆずり、只一言これを機会に、今後啓蒙的教育運動が民間に盛行競られん事を希望しておく。
    −−吉野作造朝鮮人虐殺事件について」、『中央公論』1923年12月。

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