研究ノート:南原繁と吉野作造





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(2)人間人格と自由の精神
 南原思想の現代的意味を尋ねるならば、その一つは何と言っても「人間人格の自由」「良心の自由」の根拠、神的な根拠を語って、それによって実践的に生きたことでしょう。その「良心の自由」は、彼にとっては人間性に生得的なものではありませんでした。人間は人間悪の矛盾の中にあると南原は認識しました。それゆえ人間は、自己を没却して神の恩恵によって再生されなければならないと言うのです。「重要なのは、各個人の心情・良心において神的生命と直接に結合(これは南原においては連続的な結合ではなく対決的あるいは自己放棄的な不連続な結合を意味しています)することであり、それによって一切の外的権威に対して内面的独立を保つことである」と言います。南原の人間人格の回復と良心的自由の確立は、神との直接関係によるものでした。この点で南原は、彼の先輩吉野作造とも相異していました。吉野にとっては、ヒューマニティの中にディヴィニティがあり、そのディヴィニティによって「四海同胞」を語ることが可能と思われました。つまり吉野には「ヒューマニズム宗教改革」の「相違」や「断絶」が欠如していたわけです。しかし南原にとっては、ヒューマニティの否定と忘却のかなたに思いも設けぬ神の恩恵からの創造としての「宗教的良心」があります。そこに人間人格の自由の根拠が見出されました。南原と吉野の間のこの相違は、人間悪の認識の違いでもあったのですが、それはまた両者のそれぞれの師つまり海老名弾正と内村鑑三の違いとしても指摘することができるでしょう(50)。そこにはまた「罪」の認識の相違と共に、「贖罪」の理解の相違がありました。南原は彼自身の告白の言葉としては幾分希薄とも思えますが、やはりキリスト論的贖罪信仰の線にあったことは否定し得ないことです。ただしその表現が、師である内村の場合に比してある意味で希薄な表現に止まったこともまた事実であり、それには理由があったと思われます。
(50)『南原繁著作集』第一巻、三二一頁。
    −−近藤勝彦「講演 南原繁キリスト教信仰と学問思想」、南原繁研究会編『宗教は不必要か』tobe出版、2007年、40−42頁。

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南原繁キリスト教信仰の特色のひとつが「罪」の認識になりますが、南原の先輩にあたる吉野作造キリスト教信仰の特色も同様に、否、それ以上に「罪」の認識が希薄になる。

もちろん、それはうえで指摘されている通り、その二人の師の特色の違いによるものではありますが、ある意味では、南原、吉野共に、師と向き合うなかで、自身の展開を描いたとも評価できなくはありません。

このあたりは、講演を手掛かりにして、もうすこし手をいれる必要がありますね。








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宗教は不必要か ― 南原繁の信仰と思想

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