覚え書:「今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。




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今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊


 (新曜社・4410円)

 ◇ヒトを特徴づけるものとは何か

 ヒトゲノム(細胞核内のDNAのすべて)とチンパンジーゲノムでは、一・六%しか違わない。共に塩基が三〇億ほど並んでおり、実際には三五〇〇万もの塩基に変異が見つかっているのだが、それでも一%強という小さな数字の与える印象は強い。DNA研究は、すべての生き物が共通の祖先をもち、人間もその一つであることを示してきたし、チンパンジーがヒトに最も近いことはこれで明らかだ。チンパンジーの行動研究も仲間意識をもたせるものが多い。とはいえ、やはりヒトはヒト。共通祖先からチンパンジーと分かれて以来の六〇〇万年の間に起きた変化を知りたい。ヒトを特徴づけるものは何かという問いがこれまで以上に大きくのしかかってきたように思う。

 ここでまず浮かぶのが言葉である。英国で言語障害をもつ家系(KE家)を対象にその原因遺伝子を探索した結果、高次の言語処理を行なうブローカ野と発話の際の複雑な筋肉の動きを制御する基底核とに関わる遺伝子に変異が見出された。第七染色体の長腕に存在するそれは、FOXP2と名づけられ「言語遺伝子」として有名になった。しかし、この遺伝子は動物全体で保持されており、鳥の歌、コウモリのエコロケーション(超音波による)に関わっていることが明らかになった。共通性は、喉頭から出る音や超音波の生成に関わる筋肉の素早く巧みな運動調整にあり、FOXP2はそこにある多くの遺伝子の調節役なのである。具体的機能の解明はこれからだが、「言語遺伝子」という呼び方は適切ではない。高次機能に「○○遺伝子」はないのである。

 たとえば、脳ではたらくエンドルフィンの遺伝子そのものは霊長類で共通だが、その調節に関わる部分はヒト以外では一つであり、ヒトでは一つから四つまでさまざまとわかった。以前はガラクタと呼ばれていたタンパク質合成と無関係の領域も調節に関わっている。何が存在するかよりも、それがいつ、どこで、どんな風にはたらくかが重要なのである。こうして、一・六%の違いが、かなりの差を生み出すわけである。

 遺伝子の変異も塩基の変化に限らず、配列重複、欠失、スプライシング(RNAのつくり方)の違いなどさまざまである。ヒトでだけコピー数の多い遺伝子に注目すると、その多くが脳と中枢神経系に関連しており、脳研究の必要性を改めて感じる。その他重要なのは、栄養と代謝(食べものの変化が関係)、病気との闘いであり、この三つが六〇〇万年間の変化を象徴しているようだ。

 著者は、行動研究についても、チンパンジーだけに注目することによるバイアスを指摘する。イヌは、人間の目の動きで餌(えさ)の場所を知るなど社会的認知能力が高い。カラスは筒の中から餌をとり出すのに適した棒を他の棒で引き寄せるなどの作業でチンパンジーを凌(しの)ぐこともある。もちろん、イヌやカラスの方がヒトに近いと言っているのではない。ヒトを知るには、さまざまな生物のさまざまな現象を比較する必要があるということだ。

 興味深いのは「自己家畜化したヒト」という章で、ヒトとチンパンジーの間の遺伝的差異の多くがこの4、5万年で起きており、たとえば、認知に関わるドーパミン受容体の多型化など社会が強力な淘汰(とうた)圧をかけているらしいという指摘だ。まだ仮説の段階だが、ヒトへの進化にとって重要な視点である。

 チンパンジーが魅力充分の仲間であることは認めたうえで、ヒトを知る時にゲノムの近さだけに惑わされないようにという忠告である。(鈴木光太郎訳)
    −−「今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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