覚え書:「今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。




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今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊

ポプラ社・1575円)

生きることの意味を“特上の粒あん”に託す物語

 シャッターの目立つ商店街にある「つぶれはしないが、決して賑わうことのない」どら焼き店「どら春」に、一人の老女がやってくる。アルバイト募集の張り紙を見て、自分を雇ってくれないかというのだ。老女はお手製の絶品あんを、雇われ店長の千太郎に差し出す。映画「タンポポ」を思わせる、どら焼き店再生物語がスタートする。老女があんを作るようになると、「どら春」の売り上げは伸び始める。初めての完売御礼も出る。
 こうして順調に見えた「どら春」の経営だったが、ある日を境に客が減ってしまう。指が折れ曲がり、左右の目の大きさの違う老女・徳江が、ハンセン病患者だという噂が流れたのだ。たしかに彼女は難船病の療養施設に暮らしていた。何十年も前に彼女の病気は完治し、ハンセン病じたいが現代医療で簡単に治癒するものとなり、施設に暮らすすべての人が快復者であるというのに、長い隔離の歴史を生きた徳江たち元患者は、いまも偏見から自由ではなかったのだ−−。
 ここまで読んで、小説から道徳的な啓発を受けることに興味のない人は、あまり読みたくなくなるかもしれない。小説は説教ではないのに、あらすじだけだと説教くさくなる。
 この小説のいちばんの読みどころはやはり、ハンセン病施設で生涯のほとんどを生きざるを得なかった徳江という老女が、五十年作り続けたあんに託した魂の物語にある。そして、つまらないあらすじ紹介と決定的に違う小説は、読者をそこに導くために、なんともいえない無様な中年男の物語を用意する。その男、千太郎が、いい。
 若い時には物書きを志していて、いまも未練のある千太郎は、ちっぽけな麻薬所持事件にからんで堀の中にいたこともある。出てきたときには母親も死んでいて、借金だけが残っており、どら焼き店のオーナーに借りを返すためにだけ「どら春」で働いている。どら焼きに情熱など微塵もなく、接客も好きではなさそう。その仙太郎が徳江を雇った理由は、あんの旨さと「時給二百円」という徳江が提示した破格の条件だった。一日も早く借金を返して自由になりたい仙太郎は、「婆さんはゴミみたいな時給で特上の粒あんを作ってくれる。これがチャンスでなくて、なにがチャンスなのか」と思う、自己中心的な男である。
 けれどこの人は自分自身が外れ者なだけに、根拠のない偏見とは無縁でもあるらしい。絶品のあんを作ってくれる徳江を、元患者だからといってクビにすることはできないとうじうじする。体を張って徳江を守るほどの漢気はないし、「心の病気」で仕事をサボったりするだめな人なのだが。
 千太郎が徳江を訪ねて、恐る恐る療養施設に足を踏み入れるとき、読者は彼といっしょに、徳江の魂の遍歴に出合うことになる。仙太郎の戸惑い、気おくれ、恥じらい。その心の持ちようを、自分のもののように感じて読みながら、徳江の過去を探し当てると、悲しい歴史の中で語られることのなかったいくつもの声が聞こえてくる。こうして仙太郎と小さな旅をした後には、読者は彼に生じる変化をすんなり信じることができるし、そうした変化が私たち自身にも起こりうることを、信じる気持ちにもなってくる。
 もう一つ、忘れてはならないのは、この物語の中のあんが、ほんとに美味しそうだということだ。水をいっぱいに含んだ小豆が、丁寧に煮られて、佐藤とともにあんに練り上げられていく過程には思わず唾が沸いてきた。
    −−「今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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