覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。




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今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著
毎日新聞 2013年04月28日 東京朝刊

 (未知谷・8400円)

 ◇すべての運命がきらめく、変革の古典

 二〇世紀現代文学の古典「ドクトル・ジヴァゴ」(一九五五)はソ連での発表が許されず、一九五七年イタリアで出版。翌年のノーベル賞受賞ではソ連当局の圧力で辞退に追いこまれ、パステルナークは失意のうちに死去。母国ロシアでの解禁、刊行は一九八八年。日本で三十三年ぶりとなる、工藤正廣の新訳は生気と詩情にあふれる名訳。この機会をのがしたくない。

 第一次大戦ロシア革命、内戦の四半世紀。個人の立場が奪われた時代にも、ロシアの大地とつながって生きる人びとの姿を、パステルナークは懸命に描く。医師・詩人ユーリー・ジヴァゴ、ロシアの象徴といえる魅惑の女性ラーラ、その夫で冷酷な革命家ストレーリニコフ、辣腕(らつわん)弁護士コマロフスキーを中心に、舞台は回る。人間に対する新しい見方が、刻々と姿をあらわす。

 モスクワへ向かう列車が不時停車。路床に出て、野の花を摘む乗客も。「この場所は不時停車のおかげでたったいま出現したのだ」「谷地坊主(やちぼうず)の点在するこの沼沢地の草地も、広々とした川も、高い向こう岸に見える教会堂のある美しい建物も、この世にはなかったろうに」

 内戦下、連行される少年。包帯の頭から血が流れ、ずり落ちた学帽をそのたびにかぶりなおす。それを兵士たちが手伝う光景は、ジヴァゴの注意を引く。ラーラは、読書を、「人間の最高の活動ではなくて、何かもっとも簡単な、動物にでも出来ることのように行っている」と、見る。「この読書室に集まって来ているのは読書しているユリャーチンの人たちではなく、彼らが暮らしている家々や通りがここに合流して来ている、とでもいうような感覚」。一場面にも意識の奥行きが示され、息をのむ。

 登場する人たちの出現の仕方も「方向」も、はっとさせるものがある。五九九ページ。ストレーリニコフが辺地ヴァルイキノのジヴァゴのもとに来るときのようすがまずひとつ。異母弟エヴグラフの現れ方も、小説を読んでいるという気持ちで読んでいる人には唐突。従来の散文にはないことばの流れ、飛躍、つながり。革命と戦争の時代に、それを上回るほどに革新的な表現形式だ。文学の「変革」も進められていたのだ。

 情景も緊密に結びつく。たとえば冒頭近く、まだ一六歳のラーラが部屋で眠る。「二つの点−−左肩の突出部と右足の親指とで」背丈とベッドでの位置を感じとる。ずっとあと、ラーラを思うジヴァゴの視線のなかで、「ラーラの左肩がこじ開けられた」。そこからリボンがのびていく幻想の軽やかさ、重み。目覚ましい情景がつづく。

 だが、この小説のおおきなところは、ひとりの人間をいったん描くことでおわらず、そのあとのその人をどうとらえるか。その二つが感じとれる視点を注意ぶかく備えたことにあるように思われる。

 冷酷なストレーリニコフが古典中学の教師として子供たちに慕われる、という過去。ジヴァゴとラーラの遺児ターニャが、シベリアの一隅で、洗濯係の娘となって日々を送る、という未来。目のとどかない、底深い歳月のなかでも、人の生き方が残され、伝えられていく。胸をしめつけられる瞬間だ。すべての人たちの運命が、形を変え、時を変えて、きらめく。「ドクトル・ジヴァゴ」は、いまは損なわれた文学のあたたかさ、美しさを思い出させる。本書のためにかかれた、モスクワ在住の画家イリーナ・ザトゥロフスカヤの絵も素晴らしい。(工藤正廣訳)
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130428ddm015070036000c.html




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