病院日記(4) 自分の生きている「世界」の広さ・狭さを自覚すること
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もしわれわれがあたりを自由に見まわし、生活世界において、あらゆる相対的なものの変移のうちにあっても不変なままにとどまるような形式的−普遍的なものを求めるならば、われわれは、生活しているわれわれにとってそれだけが世界についての次のような言い方、つまり、〈世界とは、空間時間制という世界形式のなかで、二重の意味で(空間的な場所と時間的位置に従って)「局所的に」配置されている事物、つまり空間時間的な「存在者」の全体である〉という言い方の意味を規定しているものに、おのずから眼をとめていることになる。こうしてここに、これらの存在者の、具体的に普遍的な本質学として理解される〈生活世界の存在論〉という課題が生ずることになろう。
−−E.フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫、1995年、254頁。
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病院で仕事するようになってほぼ1カ月が経ちました。それから、その前の工場の時も実感したのですが、人間は、自分が自分の関わっている世界っていうのは、実はものすごく狭い世界でしかないなあという話です。
ここでいう「狭さ」というのは物理的関係世界のことですが、物理的関係世界が狭ければ狭いほど、同時に精神も狭く規定してしまうのは必然なんだな、ということを実感しております。
例えば、工場だとベルトコンベアの前で、病院だと担当科のユニットの中。
工場、病院に関わらず、会社も大学も実は“狭い・世間”で、そこと家を往復して殆どの時間が過ぎていく。しかし、その知見だけで世界を判断するのが人の世の常なのかも知れません。
ではノマドや派手な営業畑がいいかというと、移動距離は、病院や工場、オフィスの○○Fに比べると格段に「広い」ですが、ノマドや外回りも結局は「会う」世界は同質世界という意義では、実際にはそんなに「広い」訳ではないですよね。
広い世界を知らない井の中の蛙だろうといわれてしまえばそうですが、しかし、そのことであることは自覚しておいて損はないなあ、というのは実感しました。別に勤務先の人が錯覚してるというのではなくして、会社員であろうと主婦であろうと、そんな広い世界につながってないって話。
しかし、ここは不思議なもので、一見すると、まさに自宅1キロメートル界隈ほどの生活圏しか持たない人であっても、ものすごい世界市民のような人がいたりするのも事実で、世界数十カ国を旅し、数カ国語を操ることができる人であっても、もの凄い矮小な人間も居ます。
まさに自覚のあるなしなんじゃないのかあ、と。
※もちろんそれだけではないでしょうが。
なので、通俗的かもしれませんが、家と勤務先の往復だけであるにも関わらず、「俺の経験では……」式のゴタクをならべて「はい、OK」というのじゃなくして、色々な世界に対して、これはもう、意識的に関わっていくような努力っていうのを自覚的に選択していくことがやっぱり必要だとは思った。
床屋政談みたいなのに食傷は誰しもがしているとは思いますし、もうええわですけど。いや、だからといってポストモダン的な「意識低いよ」で片づけるのも難であって、そうではない、「関わっていく」っていくことをしていくなかで、言葉を点検して紡ぎたいなとは思いました。雑感ですけどね。