覚え書:「書評:ドクトル・ジヴァゴ ボリース・パステルナーク著」、『東京新聞』2013年5月5日(日)付。




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ドクトル・ジヴァゴ ボリース・パステルナーク 著

2013年5月5日

[評者] 辺見庸 作家。著書『たんば色の覚書』『水の透視画法』など。
◆目くるめく風景、人の運命
 すぐれた物語は「永遠の貌」をもたず、読まれる時によって、面貌がおどろくほど変幻する。一九五〇年代に発表されたパステルナーク著『ドクトル・ジヴァゴ』を七〇年代に邦訳で読み、このたびは工藤正廣氏の新訳を繰って目をみはった。時代的制約を感じさせず、いま現在そしてこれからめぐりくるだろう新たな歴史の怒濤(どとう)と、ひとがまっとうな「個」でありつづけることの困難を、かつてよりくっきりと黙示しているからだ。
 第一次大戦からロシア革命前後の奔流を、医師で詩人のジヴァゴがどう生きて、なにに苦しみ、だれを愛し、いかに死んだか。せんじ詰めればそれを追った、こよなく詩的なこの大長編が東西冷戦下、「ジヴァゴ事件」として語りつがれる大騒ぎになった。
 作品はロシア革命の暗部を隠さなかったために発禁となり、イタリアで刊行され、著者は五八年、ノーベル文学賞に決定するも、ソ連作家同盟がかれを除名、ソ連当局も国外追放を示唆したため、パステルナークは受賞辞退に追いこまれる。
 ロシア革命礼賛者の多かったこの日本でも、同著をよく読みもせずに「反共作品」視したむきが少なくなく、偏見が消えたのは冷戦構造崩壊後であろう。言いかえれば、『ドクトル・ジヴァゴ』は新たな超弩級(ちょうどきゅう)の激動が予感されるいまこそ、くもりない目で読まれるべきである。
 詩と散文のつづれ織りであるこの作品は、詩人にしてロシア文学者の工藤氏による四十年におよぶ労苦をへて、いまふたたびの命をふきこまれた。
 「良心が汚れていない者は誰もいなかった」「彼(ジヴァゴ)は緩慢に狂っていった」の文にわたしは今昔を忘れ、緩慢に狂ったのはジヴァゴか時代かと自問する。目を洗われるようなロシアの風景描写がひとの運命の移ろいにかさなり、いくども眩(くるめ)いた。ただし、本が高額にすぎる。廉価版が望まれる。
Boris Pasternak 1890〜1960年。旧ソ連の詩人・小説家。著書『わが妹 人生−1917年夏』など。
(工藤正廣訳、未知谷・8400円)
◆もう1冊
 『パステルナーク全抒情詩集』(工藤正廣訳・未知谷)。『初期』から未刊詩集『晴れよう時』まで全七冊の抒情詩。解説付き。
    −−「書評:ドクトル・ジヴァゴ ボリース・パステルナーク著」、『東京新聞』2013年5月5日(日)付。

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